○○学校

アウトドアへの挑戦
 
 還暦
 そもそも還暦とは、十干(じっかん)【甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸】と、十二支(じゅうにし)【子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥】の組合わせとなる干支(えと)が、10と12の最小公倍数60年で一周し生まれ年に戻ることを表しています。

 これを六十干支(ろくじっかんし)ともいいますが、この干支が60年で一巡し、つまり数えで61歳(満60歳)になると生まれた年と同じ干支にかえることから、還暦といわれるようになりました。
 
 還暦の語源や由来は文字通り「還」は「かえる」「もどる」という意味で“本卦還り”ともいい、生まれた年の干支に還ることは「生まれた時に・・つまり赤ちゃんに還る」という考えや赤色が持つエネルギーを補うということから、お祝いとして近親者が赤いちゃんちゃんこや頭巾、座布団を贈る習わしがありました。
 
 しかし最近では60歳はまだ働き盛りであり、年寄りじみた慣習を敬遠する人も多いようで、私もご多聞にもれず、赤いちゃんちゃんこよりもっと興味深いものがあります。
 ただ、赤は魔除けの色とされていたこともあり、赤をお祝いに使う習わしは長く日本の文化として受け継がれてきたのですから尊重しなければならないと思っています。
 
 今まで好んで赤という色を意識したことが無かったのですが、魔よけの赤と還暦の赤は、正に近い未来の「私」そのものではないかと思い、やがて迎える還暦を素直に喜び、言い伝えの赤を私自身の記念の色として選ぶことにしました。
 記念の赤を取り入れれるきっかけが、不思議な縁で出会った小さな赤いキャンピングカーです。
 このクルマとのこの物語はまさに還暦が生んだものです。
 
 桜花
 いつの頃だったでしょうか・・・おそらく40歳代だったと記憶していますが、なぜそのような事を考えたのか定かではありませんが心の中に漠然とした思いがありました。
 別に大げさなことではなく、自慢するほどでもない自分自身の密かな願望でした。
 その頃を思い浮かべると、今とそう変わらない毎日でしたが、ただ土・日曜日に家にいることがほとんど無いという慌ただしい時間の中にいました。

 どんな時間を過ごしても季節は確実に巡り、特にお気に入りの春になると決まったように日本の国花である「桜」が咲き、花見客で賑わう桜の名所が紹介されます。
 雑誌でも競い合うように惚れ惚れとする満開の桜の写真が紹介され、私にとってうきうきする季節です。

 日本人の桜好きはいうまでもありませんが、私が一番「桜の花」について真剣に考えさせられたのは1995年1月に起こった阪神大震災の時でした。家ごと洗濯機のなかに放り込まれたようなわずか16秒の揺れが、その瞬間3600人の命を奪い、その後わずかの時間に6000人の命を消し去りました。
 
 壊滅された神戸の中で、当事大学生を中心とした若者たちと長期間ボランティア活動を行いましたが、灰色の町に息吹を吹き込んだのが花でした。
 その中で特に忘れられないのが沖縄の島々から届けられた桜の花でした。
 
 沖縄の桜は、内地の桜と異なります。1月に咲き始める濃いピンク色をした「ひかん桜」と呼ばれる種類です。沖縄の若者がそれぞれの島から集めた桜の花をANAが無料で大阪まで空輸してくれました。
 寸断した道路を避け通常通れない六甲山を四駆のグループが山越えで神戸までリレーした価値ある桜の花です。
 初めてこの花を手にした感動もさることながら、その花を避難所に一本ずつ届けたとき、それまでいぶかしそうに私たちを見ていた避難所の人たちの目が輝いたことが忘れられません。
 
 神戸市内の比較的被害が少なかった学校の教室を一つのグループ単位にした避難所には花瓶などなく、届けた桜の花を飾る気の利いた器さえありませんでした。
 にわか仕立ての紙コップやバケツを花瓶に仕立てて、それでも届けた桜の小枝を大事に飾りながら「もう桜が咲いているんですね・・」とつぶやく人や、そっと涙をぬぐう人に出会いました。
 ミカン箱から大事そうに取り出した位牌に桜の花を手向ける被災者の姿を見たとき、どうして花がこんなに人の心を動かすのだろうと、今まで当たり前であった花の存在を考え直し、その力に衝撃のような感動を覚えました。私自身ですら、神戸に本当の春がくるのだろうか・・そんな思いがあった寒い日のことです。

 それまで海外に行く機会も結構あり、桜の名所で有名なワシントンD,C,にあるポトマック川河畔にたたずみ見事な桜並木に感激したとき、これが50年前中学1年生の英語の教科書で学んだ日本から贈られた桜であることを突然思い出したり、中国の公園でも日本から贈られた桜の苗木が育っているのを見ながら、桜が果たす花の外交官としての役割を思い直したことがありました。

 つまらないきっかけかも知れませんが、こんな経験を重ねながらいつかは日本の桜を日本の中で心ゆくまで追いかける時間を持ちたいと思ったものでした。
 もし、これを実現するときが来るなら、自分自身が生きてきた歴史に心の豊かさを加えることができるのではないか・・・やがて老いてゆく自分を振り返る機会になるのではないかと考えました。
 
 
 桜前線
 待ち遠しい春!開花情報を便りに桜の名所に行けば満開の桜花に出会うことは簡単なことです。
 面白いことに日本各地の桜の開花は、地球上の経緯度に沿って一直線に咲いていくものではありません。
 もし桜前線に沿って歩けば、ある時は来た道をまた南に逆戻りし、又あるときは東へ西へまさに右往左往するルートとなり、日本の複雑な地形が実に細かい季節を形つくり、アクセントをつけてきたことがわかります。

 当たり前のように沖縄では1月に「ひかん桜」が咲き始め、種類は違うもののやがて桜は沖縄から鹿児島にリレーされ、日本列島を北上しながら5月下旬に北海道稚内でその季節を閉じるというドラマを演じます。
 桜という花自身の命は短いのですが、その命をリレーしながら四季の中の春を懸命に人々に伝えながら北上する桜花の心意気に感動を覚えます。
 自然が与えてくれた教えを充分に感じることができます。

 少し脇道にそれたようですが、このような思いがあり、ある時期が来たら桜前線とともに日本列島を移動しながら古里日本を旅してみたい・・・、期間は沖縄から稚内まで約半年近くをかけてみたい。そんな計画が漠然としながらも心に残っていました。
 
 想像する世界はワクワクする楽しい空間です。ただ現実を振り返るとそう甘くはなく何と言っても5ヶ月間も家を空け、旅を続けるということは平均的な日本人には許される条件でないようです。
 ましてや周到な準備とそれなりの覚悟がないとできないことです。

 でもいつかはきっと・・・・もし、もしもこれが可能になるならば、ある程度人生の区切りがつく時期であろうし、この条件を満たす最短の時期を想像すると、10数年後にくる60歳に照準をあわせれば何とかなるのではないかと感じたのが冒頭の40歳代だったわけです。
 
 運命

 人生は色々な場面で構成されています。不運を若い時代に体験しその教訓を生かし今を生きる人、また逆に順風満帆な生活から晩年近くに予期せぬ境遇に出会い思い悩む人など、それが人生航路だと言わんばかりの変化に富んだ不思議な摂理です。
 
 私自身も数年前大きな出来事に遭遇し、人生設計を根本的に見直さねばならない経験をしました。
 叩きのめされたような現実の中でやがて、計算にも計画にもない試練が人には必ず到来することを悟りました。
 思い悩む毎日を過ごしながら、いつしか気づいたことはこれらの境遇に際して、恨むことも、憎むことも、反省することも、努力することもあきらめも死も、最終的に自らが選ばねばならない選択科目ではないかとの思いでした。
 
 情けないことに当たり前のことに気づくまでにどれだけ時間がかかったか・・悶々とした時間のなかで葛藤する自分自身は、ぬかるみに足をとられたクルマのように泥だらけになるだけで空回りばかりだったと思います。

 無くすものが惜しい・・しかし、自由というものは無くすものがないことによって初めて得られるものだと思うようになりました。
 そう考えすべてをリセットして自分自身を省みる時間の中から歩き出すと周りの世界は徐々に美しく見え始め、意味のないものはこの世に存在しないというそんな心境になったこともあります。
 自分の意志では進まない事があることは解っていたつもりでしたが、こんな事も解らず生きてきたのかとショックを覚えたのはそう昔のことではありませんでした。
  
 
 巡礼

 そんな苦悩の中にいたとき、両親や祖母・・そして先祖が歩いた同じ道を歩いてみたいという衝動に駆られ、私の記憶にある母たちがたどった四国八十八カ所のお遍路に出ることにしました。
 ここには時間の違いがあるものの間違いなく同じ道があり、お大師様と同じ道を歩くことができると考えました。
 なぜそんな気持ちになったかは上手く説明できませんが、とにかくそうしたいという気持ちが先に立っていました

 お遍路さんは本来は1000キロを遙かに超える遍路道を歩くのが巡礼の基本ですが、健脚でも40日以上はかかる旅でありとても厳しいものです。
 すべてに余裕のない時期でしたからそれもままならずバスとマイカーに頼ったにわか遍路になりましたが、とにかく挑戦することにしました。
 もちろん先人から教えられた白装束の出で立ちです。白はそのまま冥土への旅立ち衣装で、金剛杖は行き倒れた遍路の墓標になることも知りました。

 時間を見つけながら小間切れのようなにわかお遍路ですから結局初夏から秋まで途切れ途切れの巡礼になりましたが、今思い出しても移りゆく季節と美しい四国の山々、町々そして名刹の山門が思い浮かびます。
 
 その年の暮れ、雪の高野山でめでたく勤めを終えたときは何かほっとしたような満足感が漂っていました。
 その時強く感じたことは「いつかはきっと・・・」と思いながら先延ばしするより、思い立ったらとにかく行動に移すことの大切さでした。できない理由を多く語るより、黙々と動き出せばいいだけではないかと気づいたものです。
 
 定年

 私の世代・・団塊の世代が社会の第一線から退くという話題が社会問題のように取り上げられています。 実際私や友人もこの時期を迎え老後という現実に直面します。
 私自身も人ごとではありませんが、まだ少しやらねばならないことが残っています。
 ただ幸いなことは他人が決めた定年という制約に支配されない職業であるくらいのことでしょうか。
 
 稼ぎにかけては数段、いやそれ以上であろう開業医の友人は「金があっても時間のない医者は貧乏そのものだ、時間と金があって始めて金持ちだ・・」と言う話をします。
 金もないのに動き回っている私への嫌みかも知れませんが、お金と時間があればいうことはありません。それより心の豊かさの意味に気づき、自由という特権を行使する英断も大切だと思います。
 
 
 遠征

 月に2・3度、神戸から東京を経由して茨城県の水戸まで通うようになって6年が経過しました。
 水戸黄門で有名な水戸に茨城放送というラジオ局がありますが、そのラジオ番組を毎週担当しているために出かけています。
 通勤としてはかなり遠距離で何よりも新幹線という乗り物に使う経費と時間はかなりのものです。
 最近では飛行機で一足飛びの旅も多くなりました。

 それでも、家を出てから片道3〜5時間の旅は、新幹線の車窓や空から見る富士山などの格好の刺激を受けます。
 本を片手にまたパソコンのキーボードに触れながら自分自身の時間を謳歌できる貴重なひとときです。

 昨年(2010年)の夏は異常な暑さに感じました。生前母が年を取ると暑さが若い頃の数倍堪えると言っていたことを思い出し、私もその領域に入ったのかな・・そんな思いがありました。
 
 ひときわ長い梅雨の時期だった2006年・・・、雨の誕生日を迎えてしばらくたったある日、移動中の新幹線の中で頭を過ぎったのが「59歳・・そう言えば来年は還暦を迎えるのだ・・」という不思議な声でした。
 
 決意

 十数年前に考えていた桜前線とともに旅する計画を明かすと、キャンピングカーを仕込んで日本中をくまなく訪ねると言うものでした。
 日本中のすべての町を訪ねてみたい・・白地図をすべて埋めてみたい・・漠然とした思いながらそう願っていました。

 キャンピングカーを持つことはそれなりに大変で、特に普段の日は結構お荷物になるようです。保管だけでなく日常のメンテナンスも大変ですし、日本列島縦断を終えたらその処分をどうしよう・・など頭の中であれこれ想像していました。
 その後もずっと頭の中にこの構想が残っていて、もし60歳になってまだ仕事から解放されていなければ、車中からインターネットや衛生通信を使って何とかすればいい・・そんなことまで考えていましたが、少なくともこの課題は残念ながら今も解決していません。

 ある頃までは出来ないことにはこだわらず、思い切ってあきらめることも大人の常識だと思っていましたが、阪神大震災から学んだ教訓は、思いついたらできない説明を考えたり先延ばしをせずとにかく挑戦すればいいと言う思いでした。
 6000人の命が一瞬に消えた神戸の町、しかも震源地に一番近い私が生きている事への不思議さがそう感じさせたのかも知れません。
 
 震災後急激に伸びた通信インフラがインターネットでした。電子メールというツールに加え百科事典や図書館を装備したほどの情報に居ながらにして触れることができます。随分手助けが増えたように感じます。

 子どもたちが小学校を卒業する頃まで夏の恒例行事は信州への家族旅行でした。中学校のクラブ活動が家族との貴重な時間を分断することは予想外でしたが、もともとアウトドアの遊びは大好きで今もキャンプや野外での遊びには興味があります。
 このような曖昧な思いのなかで特に具体的な計画など忘れかけていたのですが、ある朝、興味深いテレビニュースに触れました!!