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再発見の旅 |
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2007年2月6日〜8日 またまた長距離「1969km」の旅 |
何年ぶりでしょうか・・・記録的な暖冬といわれる今冬の日本列島は予想以上の暖かさとなりスキー場などを悩ませています。お年寄りや寒さ嫌いの人たちは大歓迎かも知れませんが、聞くところによると単に暖かいというものではなく年間を通じ思わぬ天災を招く実にやっかいな現象とのことです。 そんな冬の二月、再び長距離ドライブに挑戦しました。
目的は仕事を兼ねたものですが、いつもの新幹線をパス!まず埼玉のオートショップアズマさんに立ち寄りラ・クーン「還紅」のブレーキパッドを交換し、のんびりと南茨城や千葉の海岸線を走るためです。 走行距離はすでに6000km近くとなりかなり速いペースでメーターが進みます。ラ・クーンのトラック的なブレーキのアタリにもようやく馴染んできましたが、やはりもう一息ブレーキ感覚を得たいとアズマさんと事前に相談していたものです。 埼玉まで600km足らず・・やはり深夜割引の高速道路を使うことになります。今回も行きは名神・中央道のコースをとりました。大型トラックの独壇場となる高速道路は相変わらずお行儀の悪いプロドライバーも多くあの走りにしては事故率が意外に低いことが不思議な感じがします。 パーキングエリアはどこも休憩を取る大型車で埋まり、進入路もそっちのけで路側に遠慮なく停まっている大型車の光景は単なる日本の高速道路の風物詩と悠長にながめている場合ではないと思います。 それにしてもトラックが日本の物流の主役であることは認めますが、省エネを論じるなら新幹線に深夜貨物便を走らせるなどを真剣に考えないとエネルギーに限ってみても将来大きなツケを払うことに間違いありません。エネルギー問題は政治課題でしかないと改めて感じます。
休憩を繰り返し約束の朝9時にあわせて車を進めましたが、都内で一般道に入ったためアズマさん到着の約束時間を30分ほど超過してしまいました。 ブレーキ交換は手際よく行われしかもスタッフ総出で点検や整備までやってもらいました。こんな工場はそう日本にはないと思います。ラ・クーンがもっと売れるとそうはいかなくなると思われるほど行き届いたものでした。
潮来は茨城県から千葉に広がる水郷です。それよりも以前から興味があった鹿島神宮を訪ねることにしました。アズマさんで教えられたコースをカーナビで確認しながら目的地に向かいましたが驚くような好天気で気持ちの良いドライブになりました。 鹿島神宮の杜はすごいですね・・・出雲大社も、伊勢神宮も行きましたが自然林を有するすばらしい神社の一つに違いありません。 夜は仕事関係の知人が土浦に居ることもあり訪ねることになっています。そう言えば断続的な睡眠で走り続けたのと風呂に入りたくなりスーパー銭湯に行くことにしました。幸い近くに一つあることを知り行きましたが、700円の休息はかなり値打ちのある時間でした。 土浦の知人宅で夕食をいただき翌日の水戸への準備のため初めての車中泊に挑戦しました。 ラ・クーン「還紅」が停まる場所はいつも人の視線を感じます。駐車場にもどると誰かが車を覗き込んでいるか時として取り囲まれている事があります。正直遠巻きにしながら自分の車に戻り辛い時もあります。 昼食中に私と同じ世代の数人から見せてくれといわれ見学会になったのも今回の出来事です。お陰で暖かいカレーライスがすっかりさめてしまうことになりました。これからはカタログを積むようにしよう・・
7日の午後はお仕事ですがその前に茨城の名所「袋田の滝」に向かいました。例年なら凍結した滝が見られるのですが、今年ばかりは轟々と音を立てて落ちる滝壺の音が一際大きいように感じました。今回はさらに奥の滝まで山登りに挑戦しました。足がガクガクしましたがこれは思ったより値打ちのあるコースでした。
水戸の午後は仕事です。水戸駅までスタッフを迎えに行き、いつもながらのスタジオ風景でしたが終了後はまた水戸駅まで送り届け再び自分の時間を持つことになりました。
8日は帰路につく日です。目標は犬吠埼灯台・・・道中、話題の銚子電鉄の犬吠埼駅にさしかかりました。存続が危ぶまれ話題となった鉄道があみ出したネット商品「ねれせん」が有名になった路線です。
線路はグニャグニャで電車はボロボロですが、昭和のレトロを感じる何とも言えない雰囲気は大切にしなければならない文化です。この鉄道を支える友の会があるようですが、とにかく名物「ぬれせん」を買ったのは言うまでもありません。 犬吠埼灯台に着きました。初めての地です。太平洋の穏やかな海と珍しいくらい平穏なお天気のせいで寒さを全く感じることなく施設を見学しました。
灯台守と言えばその昔絶海の孤島でも家族とともに海の守りについた職業でしたが今は無人遠隔制御が標準となっています。今回の旅で納得、満足の印象深い場所でした。 房総半島は32年前のこの季節、花を見るために来たことがあります。鴨川シーワールドに行きましたが今回この辺りを走ると面影もないくらい都市化され見違えるようです。30年間の空白を埋めるにはあまりにも短い時間でした。 その後房総半島から三浦半島に直行するためにこれも初めての東京湾フェリーを利用しました。ゴルフ客で一杯のこのフェリーは重要な航路であることが判ります。 ラ・クーンの魅力は車長で料金が決まるフェリーで断然有利であるということです。30分余りの航海でお向いの久里浜に着きます。 明日の夜は会合に出席しなければなりません。本当は国道1号線をそのまま走りたかったのですが、やむなく東名高速に乗り帰路につきました。 今回の全行程は1969km、平均燃費は11.0km好天気に恵まれそして無事に帰り着いたことを感謝し心地よい疲れのなか神戸に戻りました。 |
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2007年1月2日火曜日 余部鉄橋との別れ |
除夜の鐘と交叉するように初詣の神社で新年をむかえました。我が家から歩いて15分程度の地元「海神社」ですが大晦日から元旦への時のリレーなど何年ぶりでしょうか。 穏やかな元旦を迎えましたが、明けて2日はあいにくの雨模様・・気温は9度でしたが親戚への年始挨拶を兼ねて「還紅」亥年の初走行になりました。行き先は京都福知山でしたが、道中足を延ばして余部鉄橋を見ておきたいと思い挨拶もそこそこに車を進めました。
余部鉄橋は間もなく95年の歴史を終えコンクリート橋に架けられるとを聞いています。その雄姿をもう一度見ておきたかったからです。 小学校時代の後半は兵庫県北部(今の養父市)で過ごしました。この頃の余部周辺の環境は想像を超える厳しいものだったようですが、それだけにこの鉄橋が生む話題に事欠くことはありませんでした。 余部鉄橋は1909年(明治42年)12月に着工し、1912年(明治45年)3月1日に開通しました。長さ310.59m、高さ41.45m、総工費331,535円。11基の橋脚と23連の鉄桁を持つトレッスル橋です。国道178号線がこの鉄橋の下を走っています。 その独特な構造と鮮やかな朱色は付近の情景とも相まって、鉄道ファンのみならず、山陰地方を訪れる観光客にも人気があります。最寄り駅である餘部駅には、その裏山に展望台が設けられており、絶好の撮影ポイントとなっています。
朝・昼・夕と光の具合でその姿を変えるほか、天候や四季(特に雪)によっても大きく変貌します。夜、列車が通過する様子は、さながら銀河鉄道であり、轟々と響き渡る通過音には趣さえ感じ、鉄道に関する観光地としては、屈指のものといえましょう・・。【出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から】
ところで地名として「余部」の表記が一般的ですが「餘部」とも併用され、正式には「餘部橋梁」と称するようです。 余部鉄橋は、巨費と延25万人の作業員を投じて完成したそうですが、トレッスル式と言われる建築様式についての説明がなく写真から見るしか理解できていません。
私の記憶にある余部鉄橋の鮮烈な思いは、昭和61年(1986年)12月28日日曜日午後1時25分頃鉄橋を通過中の回送列車が日本海からの突風にあおられ、機関車と客車の台車の一部を残して7両が転落、真下にあった水産加工場や民家を直撃し多くの犠牲者をだした事です。 この時の記述を見ると、この列車は団体臨時の和風列車「みやび」で山陰お買い物ツアーなどの一般客174人を乗せて午前9時26分に福知山駅を出発、11時49分香住駅に到着し乗客を降ろした後、浜坂駅に回送するため午後1時15分香住駅を出たあとの事故でした。 余部付近は、日本海側の強い北風が吹く区間で、事故後風速25メートルを超えると自動的に列車の運行を止め、年間300本以上が運休となることから、新しいコンクリートの鉄橋となるようです。山陰本線を支えてきたこの名物鉄橋がまもなく使命を終えようとしています。
鉄橋下の水産加工場跡地には犠牲者の慰霊塔があり、聖観世音菩薩が建てられています。事故というものは予想もできない突然襲ってくるとしてもこの悲しい舞台が余部鉄橋であったことが不思議に思えてなりません。 毎年12月28日に法要が営まれていますが、コンクリート橋になっても人々から忘れられることのないようにしたいものです。 いま鉄橋を残したいという思いの人たちが多くの意見を掲げています。しかし鉄道の利便性や安全性を考えると時代の求めに従うのも致し方ないことであることも理解できます。95年に亘る文化遺産をどのような形で申し送るか・・そして語りつぐかは私たちの一番大切な使命かも知れません。 思いついて足を延ばした余部鉄橋の雄姿を改めて見ることができた正月2日は印象深い一日になりました。
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2006年12月10日日曜日 若狭鯖街道を走る |
鯖街道という言葉を耳にしたことがありますか。若狭湾で捕れた新鮮な鯖を夜を徹して京都まで運ぷと、軽い塩味と鯖の脂が馴染んでまろやかで実に上手い魚に変身する・・この鯖を運搬した街道のことで若狭と京都を結ぶ文化を運んだぬくもりの道です。 ただ、鯖街道は小浜と京都を結ぷ一つの道ではなく幾つかのルートがあり、若狭湾岸あたりから多くの道が京都や遠く奈良、丹波などへと通じていました。
鯖街道という何とも言えない情緒のある響きに魅せられていつかは走ってみたいと言う思いを実行に移しました。ラ・クーンを駆って時間の許す限り動きたいという願望を今回も何とか実行できました。 行きのルートは第2神明から阪神高速、名神京都インターから鯖街道の終着点、京都大原口の出町から若狭小浜までを逆にたどるものです。 日曜日の京都は観光客が多く市内を車で走る気になりませんが、ラッシュを覚悟して京都市内に入りました。ところが思ったより渋滞はなくあっけないくらい順調に国道367号線に入ることが出来ました。 鯖街道の終着点、京都出町は小浜の人たちにとって「京は遠ても十八里」と言われたように憧れと文化の起点であり、その最短距離の道を選べば十八里だったようです。
途中大原口を過ぎた辺に朝市が開かれていました。地元の農家が集まって営む市ですが、自家製の鯖寿司なども売られ鯖街道の雰囲気が充分に伝わります。 ここでの買い物は新鮮な野菜で、特大の冬瓜を買い込みました。とにかく重い冬瓜で、また「還紅」に重荷を背負わすことになりました。 のんびり車を進めると途中、花折峠という急坂にさしかかります。正直この峠には参りました。高速道路の坂道は、一定の基準で道路が作られています。したがって坂道もこの基準を越える事はありませんから登坂車線を利用すれば問題なく走ることができます。 ところが鯖街道は人力と、馬力で京を結んだ道です。しかも最短距離を結ぶ必要があったため峠越えは当たり前です。 車社会になってもこの道が拡幅されただけで難所が解消されたわけではありません。人間というのはすごい力を温存しているということを改めて感じます。重い鯖を籠に詰め込んで夜通し山道を歩いて京都まで運ぶのですからすごいパワーと言わざるを得ません。
この花折峠は、ラ・クーン「還紅」が受けた最初の熾烈な試練でした。今までの快適な道路から一変して、ボディブローを受けたような感じでした。地図を見ていただいてもある程度お解り頂けると思いますが、幸いだったことは峠の距離が比較的短かった事です。どんな走りをするかは是非この道をお試しいただければと思います。 日本にはこのような道路が多くあると思いますが、この時だけはマニュアル車であれば良かった・・・と感じたものでした。
小浜に入る前に「熊川宿」があります。秀吉に重用され若狭の領主となった浅野長政が天正17年(1589)に熊川が交通と軍事において重要な場所であることから、宿場町が作られ栄えたところです。若狭の海で水揚げされた鯖を京の都へ運ぶ十八里(約72km)の中継点となったのが「鯖街道熊川宿」です。道の駅でもある熊川宿も印象深い歴史を感じるところです。
今回の目的は鯖街道を訪ね、若狭の鯖寿司と焼き鯖を昼食にいただくことです。以前知人から若狭の焼き鯖を頂きその美味しさに驚きました。その知人はあるお店を名指して・・買うならここにしろ!!と教えてくれました。
高速道路を走ると、PAやSAなどが一定間隔で配置されています。今回は名神高速を出てから家にたどりつくまですべて一般道を使いましたが、道の駅はありがたい施設です。道の駅は意外に多いのでその都度立ち寄りました。 高速道路の施設も最近は画一的なものから抜け出そうと工夫が凝らされて来ているようですが、道の駅はローカル性が抱負で楽しい施設です。 丁度お昼時になったので、買い込んだ鯖寿司と焼き鯖寿司をラ・クーン「還紅」の中で頂きました。お湯はすぐに沸き、暖かい赤だしに若狭名物鯖寿司・・いうことはありません。
舞鶴に差しかかりました・・道路案内標識に「舞鶴引揚記念館」をみつけ幹線道路を外れ訪ねることにしました。「岸壁の母」で有名な舞鶴港ですが、過ぎ去った私の親の時代でもあり、幼い頃ラジオから流れていた「たずね人の時間」と結びつく不思議な空間に入ったような感じがしました。 訪れる人は圧倒的に私の世代が多く、館内で出会った中国から幼い頃引き揚げてきたという男性の経験談は、平和な日本では考えつかない出来事でありこれを申し送る必要性と残さねばならない歴史に言葉少なく見とれてしまいました。
夜道に日は暮れない・・という言葉がありますが、同じ道を帰るのも面白くはありません。舞鶴から福知山を経由して我が家に帰ったのは夜の八時を過ぎたころでしょうか・・ 花折峠の名前とは裏腹に、思わず腰折峠ではないかと思う過酷な道と、その後の順調な走り・・きょうのドライブも人生そのもののような幸せな一日となりました。 |
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2006年12月2日土曜日「小京都たつの市」 |
醤油で有名な播州「たつの市」は、旧脇坂藩の城下町です。そして私が少年時代を短いながら過ごした懐かしい町です。その後も時々この町を訪ねていますが、時代は変わっても町のたたずまいはあの日の静寂さが随所に残っています。 「たつの市」は、私にとっては龍野市そのものであり合併によってひらかなの市が増える昨今ですが、播磨の小京都というイメージからは、やはり漢字の龍野がピッタリします。 赤トンボの童謡で有名な三木露風の故郷でもある龍野は、今童謡の里としてPRが盛んです。 この名前から選んだ国民宿舎「赤とんぼ荘」は私が龍野中学に在学中に完成した建物で、落成記念で三木露風の唱歌を披露したのも懐かしい想い出です。 ここで町中を見下ろしながら昼食をとり、
すぐ近くの「うすくち龍野醤油資料館」に向かいました。 中学生の頃は町中に醤油の香りが漂っていましたが、今はより綺麗な町になっているようでした。うすくち醤油のシェアでは日本一の龍野の香りは変わることなく醤油のニオイだと思います。
龍野の想い出を挙げればきりがありませんが、私が中学生の頃多くあった醤油醸造会社も今は二つ・・一時は80あった蔵が一つづつ消えていくのは時代の流れかも知れませんが醤油の値段が他の食品と比べて安いのもその原因だとか・・ 【写真:資料館にて、昔の醤油屋さんの帳場に座りました】
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国民宿舎「赤とんぼ荘」 |
うすくち龍野醤油資料館 の前で |
浅井醤油合名会社今の ヒガシマル醤油の看板です |
麹の室です |
自動販売機も龍野では こうなるようです |
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2006年11月26日、日曜日「初めての遠乗り・・」 |
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アズマさんから神戸の陸運局で
ラクーンをバトンタッチした翌朝、あれこれ手を加えたい衝動をおさえながら仕事のために東京・茨城にむかいました。 週末と日曜日の時間がこれほど恨めしく思ったことはありません。翌週帰ってから自分流に装備を整え始めましたが、仕事の合間をぬって作業をするので思うようにはかどりません。 とにかく少しずつ手を加えながら2回目の日曜日を迎え、終わりかけた秋を確かめるために兵庫北部に出かける事にしました。テスト運転を兼ねてです・・ お目当ては、天目楓の紅葉で有名な高源寺という古刹です。高源寺は鎌倉時代に開かれた臨済宗中峰派の本山で、境内には中国の天目山より持ち帰ったという天目楓が過ぎゆく秋を惜しむかのように見事なパノラマを演出しています。 はらはらと落葉する楓が、小雨に煙る冷たい空気の中、訪れる旅人に一葉の色づいた季節をプレゼントしているようです。この旅先での写真をご紹介します。 |
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