避難所に咲いた緋寒桜 
 震災後、避難所への救援物資輸送や医療活動支援のために開局された11の非常無線局は、全国から駆けつけた学生を中心とする若者のエネルギーによって支えられた。 
 私にとっても31年間のアマチュア無線活動の中で類を見ない経験をすることになった。
 不自由さをおして集まった仲間は、高校、大学生はもちろん休暇を先取りした東京のテレビマン、物書き、会社員等、実に
様々で全国規模の混成チームができあがった。
 
 2月に入ってすぐの頃、仲間の一人から相談を受けた。「神戸の町から色が消えた。灰色になった町に彩りを取り戻そう。まず避難所に花を届けよう」という内容だった。
 避難所の食料は充足してきたものの、特定の物資はまだまだ不足している。その中で、沖縄で今咲き誇っている桜の花を神戸に届けてはという提案であった。
 
 沖縄の桜は赤味の強い緋寒桜という種類で、日頃お馴染みの本土の桜とは明らかに異なる。
 2月27日、待ちかねた桜の花が大阪空港に到着した。
 沖縄周辺の島々からこの日のために持ち寄せられたもので、それぞれの島の特徴がうかがえる贈り物であった。
 渋滞の町を避けて六甲の山越えで運ばれた桜を早速、東灘区の幾つかの避難所に届けることにした。満開の300本の桜と沖縄の菊の花500本が避難所に彩りを添えることになった。
 
 最初に訪ねた小学校の校庭で、焚火を囲む10人ほどの人の輪に加わった。燃料は倒壊した木造家屋の廃材だ。積み上げられた廃材から生活の臭いが漂っている。
 暖をとるおばあちゃんの「花を見てホッとした。ありがとう。ありがとう」と繰り返す潤んだ笑顔が忘れられない。
 
 恐る恐る教室の扉を開けた。我々にいぶかしそうな視線が注がれている。
「こんにちは、沖縄から桜の花を持ってきました」の呼び掛けに部屋の雰囲気が一瞬和らぐのがわかる。
 日本で生活する者には、桜の花にとりわけ特別な思いを抱くのだろうか。
 春の訪れなど考える余裕も与えられなかった避難所の人たちに、束の間の夢をプレゼントできたのかも知れない。
 重苦しい教室に笑顔が戻ってくるのが嬉しかった。
 
 花瓶もなく愛用のグラスに丁寧に小枝を差す人や、じっと感慨深く花を見つめる人がいる。
 「もう一本もらえますか?」という声に振り返ると、枕元から一枚の写真を取り出してきた。亡くなった子どもさんの遺影だそうだ。
 笑っている写真の主人公と桜の花の色合いが妙に似合うのが哀しい。残された人の優しい眼差しに隠された震災のすごさが、無言のまま重く伝わってきた。
 
 花を配り終えるころ、照明灯に浮かぶ校庭の片隅にある自衛隊の仮設風呂から子どもたちの歓声が聞こえてきた。復興の手助けには程遠いほずの花が持っ不思議な力を知らされた一目であった。
 避難所とのふれあいの中で活動した我々の業務も、4月15日をもって終わりを告げた。

 多くの出会いを与えてくれた90日間の仲間と、桜の花が橋渡しをしてくれた、人との出会いはかけがいのない絆をつくり、生涯忘れることのできない思い出を残した。

                  (神戸垂水ロータリークラブ) 長谷川良彦 1995.10記