震災特集:9回目の震災記念日を迎えて

 2011年1月17日、阪神大震災の年に生まれた子どもたちはもう高校生です。あの日の出来事を忘れないために今も多くの人が】努力を重ねています。
 南海・東南海地震が秒読みになったこの時期、今を生きる者としてあの日と同じ轍を踏むことのないように今何をしたらよいのか今一度考え直す時期ではないかと思います。
 あの日を忘れないために震災発生後2週間を迎える日に書き残ししたメモをここに再現してみたいと思います。

阪神大震災私の13日間
                                       (長谷川 了)

 「阪神淡路大震災」と「兵庫県南部地震」二つの名前を持つことになった大地震発生の前日、1995年1月16日、神戸市の西に隣接する明石市のホールで新曲発表会がありました。300人以上が集まったビルの最上階にあるこの会場は震源地が肉眼で見渡せる距離にあり、今思い起こすと小さなエレベーター1基の防災上安心感のある建物ではありませんでした。
 しかしそんなことなど当然頭になく、私が手がけた作品の発表会でもありその成果に上機嫌でスタッフと打ち上げの美酒に酔いました。
帰宅は深夜になりましたが、疲れもありそのまま心地好い眠りにつきました。

 深い眠りを破ったのは余りにも無粋な衝撃波によるものでした。突然ドカンという音とともに地面が突き上がり寝床が浮き上がるような衝撃を受けました。
 ほぼ同時に部屋が音を立てて回転するような揺れが始まり思わず飛び起きました。妻も「地震!」と言いながら起き上がりましたが、暗がりで目を凝らすとそのまま座り込んでいます。
 音をたてて激しく揺れる2階寝室は15畳位の広さがありますが、年末に配置変えをした大型家具が私のそばにあり倒さないように必死に抑えながらただ揺れに身を任せるしかありませんでした。その間コンセント灯のわずかの明かりだけを目で追いかけ大変長い時間のように感じました。
 後から聞くとわずか16秒程の出来事だったそうです。この短い間に阪神間のほぼ全域にわたる各所でビル・鉄道、高速道路等の破壊が起こりそして多くの命が消えました。

 揺れが収まるのと合い前後して停電し、部屋は暗闇になりそして束の間の静寂が訪れました。しかしその静けさは一瞬のもので直後からは地鳴りとともに襲いかかる大きな余震が容赦なく襲ってきました。この余震が弱った構造物の倒壊にさらに追い打ちをかけるものになりました。
 日頃の備えを心がけているわけではありませんが、最初の揺れが収まるのを待って書斎の引き出しから蛍光灯の懐中電灯を取り出しました。このランプは海外旅行には欠かした事がないもので、私とともに地球を何回も回るくらい旅をしたパートナーです。
 ランプに灯がついた時にはさずがホッとしました。明かりを手に先ず娘の寝室に入りました。ベッドの中から「怖かった」と言いながら這い出てきて無事が確認できました。
 我が家の家族は5人、妻と母と高二の長男・中三の娘です。階下から母の声が聞こえてきます。長男は前目から信州戸隠にスキー修学旅行中、取りあえず我が家の人的な安否は確認できました。

 すぐに寝室に戻りラジオのスイッチを入れました。このラジオも海外旅行に持参の小型全波受信機です。ところがスイッチを入れたもののノイズで放送が聞こえないのです。スイッチ類に何度も触れながら聞こえない原因がダイヤル表示を見るために近づけた蛍光灯ノイズであることに気づくのにしぱらく時間がかかりました。落ち着いていたつもりでいても暗闇の中で焦りの気持ちがあったようです。
 飛び起きた瞬間からただごとではない地震であると直観しましたが、その時点では周辺の状況から観て神戸市の中心部や東郡が壊滅状態に陥っていたとは予想も出来ませんでした。

 我が家で一番混乱したのは息子の部屋です。本棚と反射型の重い天体望遠鏡がコンピューターのすぐ前に倒れ込んでいます。ベッドヘの直撃は免れていましたが修学旅行中でなけれぱ暗闇の中で何らかのダメージを受ける可能性の高い部屋でした。
 居間の時計は5時45分で止まっています。地震の時刻は5時46分との発表ですから我が家の時計は1分遅れていた事がわかります。
 この時計は結婚祝いに友人から贈られた記念のものです。長年正確に時を刻んできた時計はその時刻で停止し今も止まったままになっています。他の多くの時計は何事も無かったようにその後も動き続けています。
 忘れることのないこの時刻は一瞬にして消えてしまった多くの命や、一面焼土となった故郷を何時までも記憶に留めたいと思い時計はそのまま大切に保存しようと決めました。神戸の町がまた元通りに動き出した時に、この時計を壁から外して新しい時計と交代させてやろうと思っています。

 ラジオから地震のニュースが刻々と伝えられていますが、今から思えばそのもどかしさといったらたとえようがありません。すべてが大混乱で収拾がつけられなかった事がよくわかります。
 とにかく夜明けまで待てば新しい情報や、被害の把握ができるだろうと思いましたが停電のためラジオから得る情報だけが頼りで町の様子は想像するしかありません。とにかく大きな被害が出ているようです。
 余震と地鳴りの続く中、屋上に上がって見ました。もうすぐ夜明けだというのに一向に太陽が昇る気配がありません。ただ東の空がぼんやりと赤いのです。そのうちに空からヒラヒラと灰が降ってきました。灰と言ってもその大きさはちょうど紙が焼かれて空に舞い上がったように手の平より大きいものです。この灰が空から絶えず降ってくるのですから異様な光景です。ベランダや屋根はたちまち黒に染まってしまいました。火災による灰が風に乗って一山越えて届いて来たのが判ります。
 我が家の東に源平の合戦の舞台となった一の谷を見下ろす鉢伏山があります。この山を境に播磨の国と摂津の国が分かれ、その昔は異なった文化圏を構成し、今もこの山を境に神戸市は西と東を明確に色分けしています。
 皮肉なことに山越えのおびただしい灰によって須磨区や長田区で発生した火災の第一報を知ることになりました。情報はラジオでもテレビでもありませんでした。この火災で私の友人の会社も全焼しテレビで報道された通りの惨状となりました。
 不思議なことに8時になっても夜が明けません。まるで日蝕時の暗がりのようなどんよりとした明るさなのです。もう一度屋上に上がって双眼鏡でどんよりとした周辺を見回しました。屋根瓦が大量に落下している家が多い事に驚きました。

 私の家は8年前に明石市から生まれ故郷の神戸市に移ってきました。この垂水区松風台は神戸市の西に位置しその昔神戸を開いた外国人が別荘を構えたジェームス山という高台にあります。100戸余りの家の建つ比較的ゆったりとした環境は、各住宅会社の展示場といってもよいくらいあらゆるメーカーの家が立ち並んで居ます。この町並みがすべて完成してから5年位になり神戸の中でも新しい住宅地の一つです。見渡したところ幸い周辺には倒壊家屋はありません。
 私の家はセキスイハイムという会社の鉄の箱を組み合わせた住宅です。家を新築するときに住宅展示場巡りをし最後まで候補に残ったメーカーの一つでした。私自身はコンクリートの家を選択するつもりでいましたが、内装の良さに魅力を感じた女性軍の意見と建物の強度を最重点に考えた結果最終的に決定したのがこの建物だったのです。

 私の家の地形は谷伝いに海からの風が吹き上げる高台で、その昔台風により谷沿いの家の屋根がことごとく吹き飛ばされた記録が残っています。その終着点の高台にあるわけですから100年に一度の強風を計算にいれ屋根の飛ばない家を作ることを一つの課題としました。
 従って瓦屋根と言う概念は私の頭には無かったわけですから結果的にこの判断は正しかったことになります。風による災害は将来避けられないものですから計算に入れていましたが今回の地震は言わば計算外の災害というべきものでしょうか。
 近所の被害状況も聞きまLたが、我が家で倒れたのは息子の部屋の書棚位で食器棚とか家具の倒れは起こらず、皿が2枚割れた位の信じられない軽微な被害でした。
 申し訳ない思いがしたのは近所に住む友人の純日本建築の高額な家が被害が大きく、家具は倒壊し高価な洋酒がすべて割れ部屋中酒の臭いが溢れています。友人はテーブルの下に避難するほどの揺れだったようです。
 震度7の激震地でも我が家と同種の建物は殆ど無傷で俗に言うプレハブ構造の建物が丈夫であることが証明されたことになります。やがて個人の家々の再建が始まりますが、出来上がった町並みをみると被災者がどんな判断を下したのかがやがて明白になるでしょう。

 家の安全を確かめた後、二駅離れた事務所に出かけました。私のオフィスはJR舞子駅から歩いて3分位の住宅地にある木造2階の建物です。振動や揺れに敏感な女房に言わせれぱ地震計のような建物だそうで、事実ひ弱でよく揺れるのです。
 元々喫茶店として営業していたものを防音壁やスタジオの設備を整え大改造したシロモノです。最悪の場合は倒壊、良くても瓦屋根の落下、建物の亀裂等いろいろな想定をしながら車を走らせました。もし倒れていれぱ隣近所に大きな迷惑をかけてしまいます。
 途中の道路沿いの家は全壊したものやブロック塀が倒れ道路を塞いでいるものが多く見られました。高速道路を渡る橋がずれて大きな段差が出来ておりルートを変えて進むことにしました。
 我が事務所は今回の震源地から一番近い所にあり、工事中の明石海峡大橋の東200mに位置します。
 心配すればするほど不安にかられます。覚悟しながら近づきましたが到着してみると外観には大きな異常は認められません。中に入ってみるとさすがにピアノの上の花瓶が落ち散乱しています。スタジオのラックが倒れ足の踏み場もありません。少しドアの開閉が不自由な位です。門扉に亀裂が入っていましたが最悪の予想を裏切る嬉しい結果でした。

 連日テレビでは震災情報が繰り返し報道されています。初めて被害を受ける立場になり毎日食い入るようにテレビを見ながら強く感じたことは、災害情報は被災地に対するものとそれ以外の地域に対するものを分離して送るべきだと痛感しました。
 救援もなくやきもきしていた地震当日の夕方からテレビは何処かの大学教授と称するゲストを招いてこの地震の意味や建物の構造の強度とかの評論が始まりました。
 家を無くした被災者はまだテレビも見ることが出来ず外で震えている時間です。救援の体制など全く整わず犠牲者の数も判らず行方不明者の数さえつかめない時期のことです。神戸にいる私たちには大変重苦しく辛い時間でした。
 知りたい情報が無く瓦礫の下は沢山の人が生き埋めのまま放置されているのに、東京の学者達がテレビのモニターをみながらつけ加える地震の論表には大変不愉快な感じを受けました。そんなことより現地へ駆けつけて救助を手伝い、確かめてから発表すればいいではないか怒りにも近い思いでした。
 これが被災者と傍観者の意識の差というものでしょうか。もっと可及的速やかに対処しなければならないことが山ほどあるのに・・・所詮神戸もワイドショーの延長なのか!

 私が当初判断を誤ったのは震源地が私の地点から数キロの距離だったことで、震源地に近い方が被害が大きいという思いこみです。我が家の被害を基準にしてしまった事です。それと何時までもテレビやラジオのニュースの死者はたった7人その後もずっと20数名との報道だったことです。
 神戸は完全に隔離され情報も発信できない町に陥っていたと言う現実を知るには時間がかかりました。それが時間の経緯で死者が1000人、2000人と増え続けやがて5000名を突破してしまいました。最終的にはどの位の犠牲者になるか予測もつきません。まだ増え続けるに違いありません。機能しなかった多くのシステムや組織がうとましく思えてなりません。

 地震発生から2時間余りで電気が戻りまLた。私が大した被害はなさそうだと思ったもう一つの理由はこの電気の余りにも早い復旧でした。事実震度4程度の余震にも停電は一度も起こっていません。電力会社の努力には感謝せずにはおられません。電気のおかげで私たちが勇気づけられたことはいうまでもありません。しかしこの無条件の通電により多くの家から発火したという現実が残ります。

 今私の町には水がありません。都市ガスに依存していた熱源も余りにももろく他の燃料に速やかに対応する術を知りません。便利さを追求した結果大変不便な文明の利器に支配されていたことがわかります。
 水が手に入らなくなる事態は初めての体験です。水洗でしか機能しないトイレの不便さを痛感しました。飲む水とトイレに流す水が同じである矛盾と無駄を嫌というほど感じました。
 日本には上水道と下水道という考えしかないのでしょうか、中水道を造り家庭内でも貯水タンクを設置して生活用水等の水は、別に確保するような都市造りが必要だと感じました。
 水が出なくなって10日以上が経過しました。水くみが日課になりました。生まれて初めて自衛隊が届ける給水車の行列に加わりました。
 娘とポリタンクを一つずつ持って寒風の列に並びます。昨年の猛暑のニュース映像でこんな光景を見たことを思い出しながら立っていると日本人は意外と根気があり粘り強いことが判ります。海外で少し待たされるとぷつぶつ文句を言っている日本人とまた違った人種に思えます。地震で腎くなったとは思えませんがとにかく行儀が良い人たちだと感じました。

 給水の列の人達を見ると水入れの容器は、ヤカンや鍋、バケツやペットボトルのような容器の人が結構多くポリタンクを持っている私たちが厚かましいような思いにかられました。ポリタンクは毎年恒例の夏のキャンプ用です。1時間ほど震えながら並びましたが私たちの10人程前で給水タンクが空になってしまいました。次の給水まで渋滞のため約3時間はかかるとの説明を受け悔しいけれどこの水はあきらめることにしました。
 私たちに水を届けてくれるのは、陸上自衛隊熊本駐屯地の部隊だそうです。とにかく親切です、ありがたいです。私のように車を使える者はよいのですが、一人住まいのお年寄りやマンションの上部に住んでいる人は気の毒です。水を待つ間色々なことが頭に浮かびます。
 若い隊員が、おぱあちゃんのバケツを手に取り水運ぴを手伝っているのを何度も見ました。にこやかに話をしながら水を運んでくれています。なぜかほっとします。
 こんな光景も目にしました。給水車の側を通った大阪ナンバーの若いドライバーが火のついた煙草を投げ捨てて給水車の前を通り過ぎました。神戸市内がまだくすぶり続けているときです。
 給水を手伝っていた若い自衛隊員がそれを見つけて靴で踏んで火を消しました。そしてその吸殻を丁寧に拾いあげると給水タンクを引いている輸送車のドアを開け運転席の灰皿にそっと入れました。私の娘はそれをみて「わあ・・自衛隊さんすごい!」とつぶやいていました。神戸の町は優しさに包まれているという思いがした一コマでした。

 今、神戸市内は全国のパトカーや機動隊の装甲車や消防車、救急車で溢れています。復旧援助の人々でごったがえしています。ありがたいことですがもっと早く来てくれれば良かったのにとの思いがあります。救援組と復興組とでは意味合いが異なるからです。
 道路は完全にマヒ状態で自由に走れるのは自転車とバイクそして最も頼りになるのは自分の足です。どう考えてもこれ以外には思いつかないのですが悲しい性と言うのでしょうか車を手放せないのが現代人のようです。大きな車に一人だけ乗って渋滞の中を漂っているのは余りにも心寂しいことだと思います。車など地震発生時には一番邪魔な存在になります。

 神戸の町は緊急自動車や、救援車両、復興作業車等で身動きが取れません。土地勘のない他県のパトカーは歩道に駐車して乗務の警察官は地図を追いかけています。知らない町で大変でしょう・・被災8日目に東灘区でこんな光景に出会いました。何処かで異常が発生したのかサイレンを慣らしたパトカー、消防者、装甲車、救急車がけたたましく集まってきます。その数数えると約50台余り。警視庁、静岡県警・埼玉県警・・、警察や各都市の消防レスキュー隊の救急車等のオンパレードです。乗り物が大好きな子どもたちにはときめくような光景だったに違いありません。
 道路がこれらの車で一杯になり2号線から南に進行しようと全車両が右側に寄るものですからもうパニックです。どんな大事件かと思いましたが新聞には何も載らない程度の事故だったようです。地震直後にこれだけの応援があればと何度思ったか知れません。もう少したとえ1時間でも早くとの思いが頭から抜けません。

 そのころ、黙々と被災地を掘り続けていたのは自衛隊です。もちろん警察の機動隊も同じ作業をしていましたが、歴史的に見てもこの技術にかけては警察でも消防でもなく自衛隊に軍配があがるのは誰の目にも明らかです。
 皮肉なことに自衛隊の存在そのものを否定していた政党が政権党になり総理をだしました。その途端自衛隊は認知されたようですがこの変わり身の速さくらい今回の震災に素早く対応してくれればとの思いと、その後の政治の動きに対する不信感は一生拭い去ることはできないでしょう。

 20日になって修学旅行中の長男が帰ってきました。信州戸隠高原の朝食時、さあこれからゲレンデに行くぞ!と眠い目をこすりながら食堂に集まったみんなを迎えたのは燃え盛る神戸を映し出したテレビの映像でした。食事どころではなく生徒達も凍り付く思いだったようです。
 学校は須磨区にありますが生徒は激震地の長田区から通学する者も多く、テレビを食い入るように見たそうです。
 その時点で神戸に帰ろうにも交通が寸断されて大阪からは神戸に入れない状況になってしまいました。地震直後現地で校長からの訓示があったようです。旅行を中止して帰るべきだが現地の状況が全くつかめないので情報が入る猶予期間として旅行を継続するとの話だったようです。適切な判断だと思いますが生徒には落ち着かないスキー旅行だったと思います。
 当初の計画は夜行列車で大阪を経由して神戸に戻る予定だったのですが、予定を変更して信州からそのまま須磨区にある学校までバスを仕立てて戻ってきました。北陸自動車道経由、舞鶴自動車道、175号線を経て所要時間18時間の長旅でした。帰った家が倒壊し家族との再会が避難所であったクラスメートの話を聞くと心が曇ります。学校は今も休校です。

 私が長年趣味にしているのがアマチュア無線です。この団体である日本アマチュア無線連盟と私も関わりを持っている関係で東京から連絡がありました。それは無線を活用した被災地への支援体制を作るから協力してほしいとのことでした。もちろん協力を惜しむことはありません。アマチュア無線機器を製造する業界団体から無線機の寄贈を受け被災勉に配布するボランティア事業です。
 アマチュア無線は郵政大臣の免許を要する趣味ですが、この震災に対する特例措置を受けて郵政大臣から口頭で無線局免許が出されたため、その準備の為に大阪まで出向くことにになりました。
 しかし現実は厳しいものです。全く大阪に近づけません。そのとき私の家から大阪に行くには姫路に出て播但線、和田山駅から山陰線経由で京都から大阪へ入る気の遠くなくようなルートしか無かったのです。
 私の友人でどうしても大阪に行く必要があり、朝6時に家を出た者が大阪の中心部に着いたのは夕刻になっていました。その日の大阪行きはあきらめ大阪のスタッフに応援をお願いして電話で打ち合わせをし連絡待ちにしました。

 この地震でライフラインと言う言葉が浮上しました。電話、電気、ガス、水道等の生活に欠かせない生存バックアップラインのことです。
 地震直後、真っ先に電話があったのが京都府福知山の家内の実家からです。そのあとすぐに新潟の友人から電話がありました。彼は新潟地震の体験者で大学の同期中唯一の巨大地震経験者です。特異な体験を持つ彼の地震の話は学生時代によく聞いたものです。
 私が彼以上の地震体験の当事者となるとは思いもよらなかった事です。しかしとても嬉しい激励の電話でもありました。
 そして上海に住む中国人の友人から国際電話がはいりました。上海電視台のテレビで神戸の地震のニュースが流れている大丈夫か?・・9時前だったでしょうか、この電話を最後に電話が不通になりました。地震では電話が使用不能になることは常識であっても全くつながらなくなるのは大変不安なことです。
 マスコミでは電話の利用を控えるように呼びかけていましたが、どんな効果があったのかわかりません。わずかに公衆電話が唯一のライフラィンのサポートとなりました。それでも行列に加わり順番が回ってきても相当な間引き通話のためかかる保証はありませんでした。
ドコモ・セルラー・ツーカーホン・デジタルホン等、今流行の携帯電話はその瞬間無用の長物になりました。ちょうど一年前のサンフランシスコ大地震の時に携帯電話が最後まで利用できた事が発表されアメリカで販売数をその後飛躍的に増やした話を思い出しました。
 日本で携帯電話は増加に対応できる周波数や設備確保が困難であることやトラフィックが絶対数に対応出来ていない為かも知れませんが、通話料の高さに比例する確実性が欲しいものです。
 携帯電話がもっと確実な通信手段であれば今後起こる災害に対して飛躍的な貢献ができるはずです。火事や倒壊で公衆電話も破壊され危険を伝えることもままならない状態で息絶えた人も多く居たはずですから電線を使わずに通信できる通信手段の保護は不可欠ではないでしょうか。
 にかく、3日間は電話も通じず虚しいNTTのアナウンスや無音、話中音等ばかりを聞いていた感じです。その後一週間は電話の状態が悪く知人の安否も判らず、全国からわが家のダイヤルを呼びつづけてくださった友人にも相当な心配をかけてしまいました。

 無線の話に戻します。神戸のみんなは疲れ切っています。私も例外なく風邪をひいてしまいました。2年ぶりの私にとっては事件です。
 既成の交通機関を利用するのは諦めて大阪までバイクで出かける決心をしました。幸い私は125ccのスクーターを持っています。滅多に乗らないものですからバッテリーもあがり日頃のメンテナンスの手抜きが目立ちます。
 今回ばかりは前日からバイクの整備に入り購入してから初めてプラグの点検や整備を行いましたが一番の問題は燃料の補給です。ガソリンスタンドは長蛇の列で3時間並んで貯蔵タンクは空になり、即閉店が繰り返されました。
 車を制限するために意図的に給油の制限をしているのかと思ったほどです。私のバイクは満タンにすると大阪市内までは無給油で往復できます。幸い近くにタンクローリーが来たばかりのスタンドを見つけました。お陰で燃料はOKとなりました。

 長抽のシャッを着込み、厚手のズボン下、革の手袋といった重装備で朝8時に家を出ました。とにかく行ける所まで行こうとの思いでパイクを走らせました。私は、その昔自動2輪の免許を取りました。バイクの楽しさは十分に知っているつもりですが、今回ぱかりは少し緊張感がありました。
 自宅から国道2号線に出るとギョッとする車の列です。その脇をバイクや自転車と人が黙々と移動しています。予想以上の混乱です。走りながらまるで中国、上海の町を走っているような錯覚に陥りました。 崩れて色を無くした町並みは10数回訪れている上海の少し前の光景に似ており驚きました。国道沿いの家屋は倒壊しており、その瓦礫を避けながら後はハンドル裁きだけが命を守る手段です。
 全くの渋滞でやむなく道路の中央を走ります。対向車は容赦なく走ってきます。神戸の旧市内に入りました。ビルが見るも無残に瓦礫になっています。車道は走れません。しかたなく歩道を走ります。日頃厳しい交通警察官もこれらには黙認です。
 国道43号線に入りしばらく走りましたが、通行は緊急車両のみとなり進路を北にとり再び2号線に入りました。東灘区から芦屋にかけての国道沿いはまともに建っている建物は全くありません。5000余人という犠牲者がむしろ少なすぎると思える位の惨状でした。寒風の中を走りながら鼻水と一緒に自然に涙が溢れて止まりません。言いようのない虚しい光景が目の前に広がっています。

 世界一美しい町を目指し確実に発展をとげた大都市の断末魔でしょうか。私にはこの町が泣いているように見えました。私の家が大丈夫だったとの安堵の気持ちなど微塵に砕け散ってしまいました。
 やがて大阪に入りました。日頃は多く感じる市内の交通量が少なく見えるのが不思議です。ビルが何事もなかったようにそびえているのが奇妙に感じます。当たり前の光景が何とも異様に思える程、神戸とは異なる別世界がそこにありました。

 大阪で兵庫の友人に久しぷりに会えました。緊急車両の通行許可を得た車が先に着いていました。それでも朝4時に出発したとのことです。私は2番手です。朝日新聞の記事で大きく取り上げられた200局のアマチュア無線局のネットワーク作りの実践にはいります。
 実際に取り組むとなると無線機200台の被災地への配付と言う作業は困難をきわめるものです。機材を持って避難所に行くだけでも大変なことです。
 NHK、新聞社、テレビ局の大好物のネタのようで取材依頼の電話が頻繁にはいります。申し訳ないとの思いがあるものの、これらにまともにお付き合いできる余裕などありませんでした。そのあと私と行動を別にした兵庫県支部の役員達は夕方から深夜にかけて被災地に入りました。
 連絡を取ったものの出会うことの難しさは相当なもので、この間地元の神戸新聞の記者との西宮北口での待ち合わせも結局会えずじまいになってしまったようです。マスコミの強引な取材約束を守り待ち続けても一方的に反故にされるのが非常事態というのでしょうか。この時間が惜しまれてなりません。

 いろいろな情報が私の所にも飛び込んできます。しかし私一人では何もできません。アマチュア無線家というボランティアにも限界があります。兵庫県でのできごとです。放置するわけにはいきません。もどかしい思いを抱きながら明日の準備を整えて一応帰途につました。翌日の作業に備えるためです。帰途、夜の被災地を通りました。道路は変わりなく車で塞がっています。バィクと自転車だけがかろうじて活発に動いています。投光機に照らされる倒壊ビルの解体作業は闇に浮かび上がる幽霊屋敷のようで不気味な感じがします。これが神戸の町で起こった本当の出来事だと自分に言い聞かせながら走り続けました。

 翌日、早朝からまたバイクに乗り東灘区の森北町というところに行きました。活断層が地表に現れています。協力を申し出てくださったアマチュア無線の仲間であるそのお宅は家の下を斜めに通っている活断層のために敷地の半分が南側に数十センチにわたり移動して隣地にはみ出しています。
 すぐそばの地面の広いところでは幅1mの割れ目、段差が1.7m長さ40mに渡る亀裂が発生しています。上空は取材のヘリコプターが旋回を繰り返しています。
 新築の家は倒壊を免れていましたが使用には相当の修復が必要です。自宅を開放して無線局の中継局を置かせていただきました。被災者の立場にありながら員重なスペースと、時間の提供や諸々の協力には頭がさがります。ありがたいことです。

 あの日からあっという間に10日間が過ぎやがて2週間・・この作業はまだまだ今後も継続的に続くことになります。自間自答してみたり、これで良かったのかと考えたりの毎日が続きます。いずれにしても仕事を犠牲にして働いてくれたボランティアハムの皆さんの力が今は頼りです。
 神戸市全域に電気が戻ったものの、ガス、水道は我が家では停止したままで、今のところ復旧の見通しはありません。
 地震後13日目がまたたくまにすぎてしまいました。断水3日ごろまで乏しい水で顔を洗うとき自然に蛇口の栓をひねり断水を悟りました。トイレでも同じしぐさをします。恐らく多くの人が私と同じことをして苦笑したに違いありません。今はもうそんな癖も無くなりました。不自由さが身についてきたのかも知れません。

 時折お湯で体を拭いて過ごしてきた10日間が過ぎ、ストレスの限界を感じ風呂を求めて家族で隣の町に放浪の旅にでました。風呂に入れるまで家に帰らぬ覚悟でした。故郷に錦を飾るまで帰らぬ決意・・`なんてかっこいいのでしょうが笑えない現実です。
 神戸の銭湯はいつも満員です。2時間並んで10分の入浴が常識になりました。水がないのです。燃料の重油が配達されないのです。今の神戸は日本中で一番悲しい町だと大声で叫びたい気持ちです。
車を走らせ少しぜいたくしてありついた風呂は、いま流行のバラエティーにとんだお風呂でした。
 家族5人でしめて4700円、毎日利用するにはあまりにも高価なしろものです。本来は一日楽しむ場の風呂でしょうが、あまりにも短く高価な風呂でした。でも私たち家族が得た心の豊かさは、お湯の温かさよりもずっとホットなものだったことは言うまでもありません。

 被害にあって初めて感じた事が多くありました。日頃疎遠だった人からも励ましの電話をもらいました。私自身も前より少し人に優しくなれたのではないかと思えます。
 歴史に「もしも」という言葉は無いことを承知していても、もしああ忌まわしい揺れがもう15、30分、さらに1時間、2時間遅かったらこの程度の犠牲では済まなかったことが実感として残ります。その逆もあり得ます。適切ではないとお叱りを受けてもこの地震発生時刻は幸運であったことは否定できません。
 今回の震災を観ても、弱者から多くの犠牲者がでています。「人に優しい政治」などというスローガンを聞いたことがあります。新しい神戸を造るなら「人がやさしい町」を目指したいと願うのは私だけではないと思います。

 大好きな町、神戸がまた力強くよみがえるまで皆んなで協力しながらこの不自由に耐えて行こうと思っています。再建の槌音は大きなこだまとなって響きわたってきます。私にとってもご心配いただいた多くの友人の励ましを生涯忘れることはありません。
 どうか私と同様神戸の町にも今後ともご支援頂きますようお願い申し上げます。一日でも早い神戸復活の日を夢見て・・・

                  1995年年1月28日余震の続く神戸の片隅にて、長谷川記す