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![]() 第4回 4S7 DX-PEDITIONの記録 2004年9月17日〜25日 (スリランカの旅) ![]() |
第4回、4S7(スリランカ)ペディションは、台風の合間を縫い9月17日から25日まで行われました。今回の特徴は無線チームをリゾート地ニゴンボの町に常駐させ観光チームは遺跡の町アヌラーダプラからミヒンタレー、宝石の町ラトウナプラ、シンハラジャの森そしてオランダ要塞の町ゴールを訪ねました。 旅の余韻が冷めないうちに今年の旅を振り返って見ました。アマチュア無線に興味のない方にも読んで頂けるよう心がけたつもりです。 |
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プロローグ 10個の台風が上陸するという類まれな新記録を作った今年、まさに嵐の隙間をぬいながら旅を計画した印象がある。記念すべき4回目のスリランカ旅行は、2004年9月17日から25日まで9日間の行程となった。観光地訪問としてはシンハラジャの森を最後にスリランカに点在する7つの世界文化遺産すべてを踏破することになる。 私にとって5回目のスリランカ旅行計画だが、何度トライしてもやきもきするのが参加人数のことである。多すぎても大変だし少なすぎてもこれまた頭痛の種になるからだ。 昨年夏、失踪した世話役のために悲壮感を抱きながら急きょ飛び立たねばならなかったスリランカで考え込んだことは今後この旅を継続することが出来るか不安な課題への対応だった。 新しいチャレンジにはある程度の試練は付き物だが、過去のしがらみを清算し2ヶ月後の9月何とか予定通り旅を成し遂げることができた。 昨年に続き4回目のスリランカ訪問はさらに強固な手作りの旅の始まりとなった。 基本的な取り組み 今回の特徴は無線チームと観光チームとを完全にセパレートし、無線チームを海辺のリゾート地に常駐させ、心ゆくまでアマチュア無線を堪能してもらい、観光チームは北の名勝地アヌラーダプラから宝石の町ラトウナプラを訪ね、最後の文化遺産シンハラジャの森を探検して昨年の思い出の町、要塞の都市ゴールから最終日に無線チームと合流し帰国する行程を組んでみた。
一応グループを束ねる役割の私としては最大公約数的な満足感をメンバーに与えることは絶対条件であるが、旅の行程に関する裁量権だけは行使させてもらっている。 すでに三回の旅行経験でこのペディ兼観光旅行もそれなりの認知を受けているようで月刊誌、CQ誌の記事をみて早々とこの旅へエントリーがあったくらいだ。 新しい課題 今回旅の計画でまず突き当たったことは、このところのスリランカ旅行の繁盛ぶりから当然旅行代金も割安になると思ったが「旅行」というものは一般の物価とは異なり人気が高まるとかえって価格が急騰するという厳しい現実だった。 機関銃や小銃で警備される中をくぐり抜け空港から国中を駆けめぐった最初の年は、日本人を見かけることが珍しかった。しかしその翌年は和平交渉が進み警備の兵士が町中から消えて驚いたものだ。 昨年秋、政権が変わり少しばかりきな臭い政治背景も伺えるが、今年の空港は深夜にも関わらず人と車が溢れ活気を呈していた。 空港に近いニゴンボにある我々が常駐するホテルは毎晩深夜便で到着する観光客の受け入れ先で、翌朝から各地の観光地に移動する中継点となっている。日本人団体客の会話も聞こえスリランカであることを忘れるくらいだ。 インド洋に面したリゾートホテル ホテルはインド洋に面したビーチに直結するリゾートホテルであるが、サービスに関して言えば今年も昨年同様もっともスリランカらしい金銭トラブルに多く巡り当たった。この出来事は今後スリランカを旅行する日本人がスリランカの民族性や特徴を理解するためにも詳しく述べてみたい。さわりをいえば日本人のお人好しを巧みに利用した売り上げ至上主義がスリランカ中に蔓延し日本人は格好のターゲットになっているという話だ。
スリランカはどんな国 スリランカは南北430q、東西210qの北海道をひとまわり小さくした程度の島である。スリランカ人のヨーロッパコンプレックスは相当なものでその歴史をみるとおおよそ国民性が理解できる。 スリランカは1505年にポルトガル人の侵略を受け、国王は通商に合意したものの外国人の存在を嫌いキャンディに首都を移した。 表向きは笑顔をみせ陰で悪口を言うスリランカ人に多く出会っているが、別にことさらスリランカ人を悪く言う意図ではない。ポルトガルに侵略されるのが嫌なら戦えばいい。笑顔で受け入れてから本当は外国人は嫌い・・と都を移すだけの国王が指導者なら庶民に与える教育的影響は大きく、このあたりに今のスリランカ人気質が始まったのだろうと推測している。 そして、1650年オランダ人が進入し国王は喜んだかどうか判らないがポルトガル人を追い出すために手を組んだ。しかしオランダ人のその後の悪政はポルトガル人どころではなくまさにババを引いたと思ったかも知れない。オランダは言いなりの国王を尻目にさまざまな商業活動をおこなった。しかしオランダはスリランカに様々な文化をもたらしたのは事実だ。 当時のヨーロッパから見るとはアジアなど赤子の手をねじる程度の意識しかなかったようで、ポルトガルを追い出したオランダを拍手で迎えたもののその後は虐げられた時代が長く続く皮肉な歴史をつくってしまった。 国王の上にある威圧的な外国の力を庶民がどのように観ていたのか興味があるが、今のスリランカの国民性からおおよその見当はつく。スリランカに学ぶまでもなく近年でも同様なことが起っており繰り返す歴史は面白い。 オランダからイギリスに そして1802年、オランダに変わってイギリスが直轄植民地として統治するようになり、しかも元首までおき、最終的には王権首都であるキャンディに侵攻し国王をインドに追放してしまった。このためシンハラ王朝は1815年に滅びることになった。ポルトガルに軒を貸した国王の末裔はこの時点で母屋を取られ王国310年の歴史を閉じた。 このヨーロッパに支配された期間にスリランカ人にDNAとして潜在的な意識が刻み込まれ、スリランカ人の頭は今なおヨーロッパに対する嫉妬と憧れが混在している。 江戸時代も300年の間に文化を形成し江戸庶民の精神的DNAが形成されたようだが、庶民の服従の意識はスリランカとは根底から異なる。 国王の上に外国資本がどっしりのしかかれば民族の思考も時々に振り向く方向が変わってしまう。 スリランカはアジアなのか・・と、考えるときがある。日本外務省の南西アジア課が担当する地域だが東南アジアとはこれまた全く違う。 スリランカ人は日本に親しみを感じ尊敬している・・と聞くが、少なくともある階級の意識の中にアジアや日本人は上手く利用するが、潜在的に見える景色は今もヨーロッパでしかないことがよく見える。 ある階級とは観光やODAの恩恵を受ける利権者で、日本人はありがたい存在であるが尊敬の対象になっていない。小遣いだけやって恩を売る親など尊敬しない子どもの心情に似ているかもしれない。 インドほどではないがカーストのあるスリランカは一般市民の意識と、国の発展を妨げているのはお前たちだと思う役人との距離は大きいようだ。観光客で小金持ちである日本人はここでも別の属性をもつ存在だ。 スリランカで圧倒的な数を誇る観光客はドイツ、フランス、イタリア人のヨーロッパ勢だがそれより数段金を使う日本人はスリランカ観光業者のヨーロッパコンプレックスの狭間で知らない間にうまくおだてられ利用されているようだ。 怒りと感動のスリランカ アメリカ大陸を旅行すると今でも潜在的な白人優先主義に出会うが、初めての旅行者が何も感じないのと同じようにスリランカにおいても一度通過するだけの観光客は不快感など全く抱かない。 二度とスリランカに行くものか・・という思いを毎年抱かせる観光国など私の経験に無いからよけいに魅力的といえばやせ我慢に聞こえるかもしれないが、ヨーロッパ観光客にはにこやかに接し「日本人はありがたいけどだましやすい・・」がまかり通るスリランカ観光業界は一度精算しなければならない時期を迎えるだろう。 決して謝らない、譲らない、嘘を言わないまでも決して本当のことをいわない悲しい国民性はヨーロッパの侵略から学んだ保身と生活の知恵からでたものだと断定できる。 ホテルでの経験を後に話すといいながらスリランカ人の特徴を連ねると際限なく続くのがおかしいが、このあたりで今回の旅行記の本題に入ることにしたい。 今年も32人の大所帯となった 30人は参加してほしい・・!早々とエントリーしてくれた初参加の人よりもリピータ組の意思表示が極端に消極的だったのが今回の特徴だった。過去3回それも毎年スリランカに行けばそうなるのは致し方ないが、私も商売ではないので仲間として考えてほしい気持ちになる。リピータ組はそれなりにスリランカ評論家になり参謀本部としては作戦が立てられず頭を悩ましたものだ。
その点早々と参加表明の無線チームは明確な目的があり、固定したメンバーも多く何の心配もない。食事と環境を提供すれば自由に遊ぶことができる模範生である。 私が30人と言う人数にこだわるのは、初回からの経緯で現地の旅行会社の受け入れがコスト的にみて最も安定する数字だからだ。大型観光バス1台あれば30人なら長距離移動にもゆったり耐えることができ一番安くあがるというメカニズムだからだ。 計画の一喜一憂 毎年当然ながら発生する直前キャンセルを想定して、航空機予約のように多い目の人数を計画に盛り込むことにしている。30人のエントリーがあっても必ず一時的に27名くらいに落ち込むので安心できない。 34になったり27になったりこのシーソーゲームはこの時期は薄氷を踏むような思いで心臓に悪い。これは私自身とても苦痛なものでもうこんな世話は最後にしようか・・と自問自答を繰り返しながらこれを4年間懲りもせずやっているわけだ。 昨年秋スリランカ政府が変わり、それに伴いトップから下部まで人員が入れ替わった。我々の旅は無線局の免許を政府から取得しなければならない宿命上、昨年の何倍も現地とやりとりすることになったことは予想外だった。 レスポンスが遅く、国際貨物便の離島割り増しやちょっと異質な英文・・日本の常識が通らないリズムなどマッチングを取るためのストレスは意外と大きい。 リセットの繰り返し 8月半ば必死の思いで30人の参加をみて胸をなでおろした時、家庭の事情などでペンディングだったリピータ2人のエントリーがあった。もうこれで最終だと現地に最終名簿を送った直後だったが嬉しい申し出に変わりはなくまた書類を作り直して現地に送り32名の第4次スリランカ訪問チームが確定した。 何よりもありがたかったのは、名古屋のメンバーと遠く四国からのリピーターの参加があったことだ。 とにかく旅行代金を抑制したという思いが一喜一憂させる要因であり来年は、無理をさけて自然なスタイルにしようと考えている。 シンガポール航空を使う
恒例となったこのスリランカ旅行は全くの手作りである。初回から日本の旅行会社を通していない。理由はその頃スリランカは外務省の渡航制限地域に指定されており日本の旅行会社が旅を扱っていなかったからだ。当然私の頭にもスリランカなど無かったが、ふとしたきっかけからスタートしたこの旅の経緯は過去のレポートに詳しく記載しているのでぜひご覧いただきたい。 スリランカに行くには スリランカに行くには何通りかのルートがある。最強ルートは成田−コロンボ間のスリランカ航空直行便だが関西に居住する我々としては東京までのアクセスが悪く時間的に厳しい現実に直面する。 2回この便を使ったが2年目の人任せによる無責任かつ恐ろしい出来事に接しそれ以降は、私自身が関空離発着便を確保し使うことにしている。 911事件がキーワードになった 2年前の恐ろしい事態とは・・スリランカに飛ぶ便の予約は終えていたものの、無責任な世話役が連絡を怠り大阪から成田までの国内便の予約を入れていなかったという基本的なミスを犯した。 911事件を覚えておられるだろう。あのテロ事件で海外旅行の中止や自粛が長期にわたり発生した。この頃海外での乗り継ぎ便が欠航し直前になって中止になるツアーが続出した。 幸いなことにこの影響で突然中止になったツアー座席を譲り受けて結果的に一番使いたかったJALの理想便に搭乗できることになった。もし不幸なテロがなかったらあの年の旅はつまらないミスが原因で空中分解していたと思う。スリランカの旅の女神はいつも我々に微笑んでいた。 格安航空券 こんな事情と世話役が失踪したため3回目の昨年9月の訪問はすべて自力で現地と交渉を重ね空路も関空ルートを使うことにした。実質それまでも世話役はスリランカ国内の調整だけで、一番煩雑な事務処理や折衝は私の担当だった。 航空会社を選ぶのも結構面白いが、その結果選んだのが料金面で有利だったタイ航空だった。 格安航空券は各社に問い合わせてみたが結局かの有名なチケット屋さんから求めることになった。この会社はエアの申込書より保険の申し込みフォーマットの方が立派なもので旅行代金より保険加入をメインの仕事にしているのではないかと思えるほどだった。格安航空券が格安でないこともあるという経験はその後することになる。 航空代金のメカニズム タイ航空のバンコク6時間のトランジットは長すぎる。ただ30人もいればそれなりにわいわい過ごせるが、時は金なりを考えると便選びも重要な課題だ。 今年になって航空券確保をしなければならない時期を迎え、儀礼的に昨年のチケット屋さんにまずは聞いてみた。まだ寒い時期だったが昨年の担当者は移動しておらず、4月にならないと今年の金額は提示できないとの話だった。 5月に入って再度確認のために電話を入れてみた。直行便のスリランカ航空の他にタイ航空、マレーシア航空、キャセイ航空、シンガポール航空などが利用できる。 聞いてみると各社の料金は昨年より割高になっている。チケット屋の男性社員は「これだけスリランカ便が満席になると絶対安くなりませんよ!」たくさん売れれば高くなるという経済原則に逆行する旅行業界のシステムに思わず唸ってしまった。 それより値段だけを条件にするなら買ってもらわなくてもよいと言わんばかりの対応にも不満が残った。もっと不思議なのことは我々にとってアクセスが不便な航空会社が料金的に高いというのも奇妙だった。 郵船トラベルに感謝 持つべきものは友達という言葉があるが、ありがたいことに友人に大手の旅行社の幹部がいる。それなら最初からお願いすれば良いではないかと言われそうだが、手作りの身勝手な旅であり儲かりもしない航空券だけをお願いするのは少々気が引けていた。 しかし今回はそうも言っておれず素直に頭を下げることにした。もちろん安くという枕詞つきの依頼であるが、びっくりしたのが昨年使ったあの大手の格安航空券会社より随分安いことだった。正規の大手旅行会社は高いという先入観が覆されたが嬉しい誤算となった。 おまけに「シンガポール航空なら取引が多いので一番安くできますよ・・」とのアドバイスを受けて大喜びであった。ビジネスマンに人気のSQ便がタイ航空より安い、迷わずお願いしたことは言うまでもない。友達は大事にしよう・・・郵船トラベル万歳!!! |
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9月17日金曜日 出発の日 今年の台風の襲来は歴史に残る。もし出発が台風と重なったら・・いつもこの心配をするが幸い天気も我々に味方してくれた。
10時に関空に集合だ。恐らく全部で800sを越す荷物だろう。交渉役はご無理をお願いした郵船トラベルの西日本の偉いさんと団体旅行のチーフである。人件費の高い二人がチケットを買っただけの我々の世話をしてくださった。これに感謝しつつ、とにかくSQ985便は一路シンガポールを目指して飛び立った。 飛行機の中の怪我人 参加者が32人もなると何かが起こるものだ。昨年も要診察事案が2件あったが、今回はシンガポール航空機中で貧血による転倒で頭部打撲の患者がでた。5時間の乗り換え時間がありとにかく空港の診療所に行くことになった。幸いシンガポール空港の医療水準は高いようでチャンギ空港の診療所で丁寧に診察してもらった結果大事には至らずそのまま旅を継続できることになった。 数千キロの旅になるとそれだけでも疲労感が残るが、旅行のための日程調整に追われることも多い。特に現役の場合仕事の段取りを整えるために睡眠不足になるようで過労気味の参加者も多くなる。おまけに早朝に家を出て、重い荷物と格闘しながら空港に向かうのだから相当体力を消耗するのは当然だろう。 毎年の行事でそれぞれ傷害保険に対する認識も高くなっているが、アジアは思ったより医療費が安く驚いたが、先進国の医療請求はそうはいかないようだ。旅はケガ無く終えることがもっとも大きなお土産である。 深夜のバンダーラナーヤカ国際空港に着く 2001年深夜、当時のエアランカ航空機がこの空港に着いた時の印象は今も鮮明に残っている。成田から乗り込んだ機内は4割程度の客で、しかも乗っている日本人はそのままモルジブに飛びたち空港に降りたのは我々15人であった。爆弾テロのスリランカに入国する観光客は珍しく我々の役割は大きな意味を持っているようだった。
空港の警備は日本人にとって恐ろしく感じるくらい厳重で、武装した兵士の存在はもちろん、空港への道路は一定間隔の土嚢で固められトーチカが備えられている。機銃と兵士のするどい視線はすごい国に来たという思いがあった。 スリランカの平和は続くのだろうか あれから3年一応和平という大義名分のもと驚くほど観光客が増えたスリランカだが、選挙のたびに政権が変わるが国民は基本的に政府に関心を抱かず、政府も国民を意識している様子もない国にそう簡単に平和が訪れるとはにわかに信じることができない。 これまでの内戦をみてもヨーロッパの支配にさらされたスリランカ人同士の宿命が見え隠れし本来戦う敵は国内では無いだろう・・と思うことがある。真の敵が見えず国内で争いを続け消耗するスリランカは1505年のポルトガル侵略を思い出せばいい。 スリランカ空港は深夜がラッシュ スリランカに着く航空主要便のほとんどが深夜になる。キャセイ航空、タイ航空、シンガポール航空などが30分間隔で着くので、それまでがらがらの到着ロビーが23時頃には車を止めることすらできないくらい混雑してくる。 ニゴンボにある空港からコロンボの中心部まではそう距離はないが深夜でも1時間近くかかり、昼間はお馴染みの川を越えるまですさまじい交通渋滞に巻き込まれうまくいっても1時間半はゆうにかかる。その上空港を出るまでにかなりの時間を要するだけに空港整備は不可欠だ。 スリランカ国鉄とクルマ 鉄道は見事な広軌軌道であるがグニャグニャの線路ではスピードアップなどほど遠く、車より遅いのがスリランカ鉄道の自慢である。そのスピードの説明を加えると、線路を生活道路にする人も多く改札を通らずに線路から家に帰るわけだ。列車が来てからゆっくり線路外にでてまた線路伝いに歩く・・ここまで言うと鉄道のレベルがおわかりだと思う。
しかし車と人と自転車と、バジャージと呼ばれる自動三輪車や耕耘機を動力にした運搬車が混在して走る道路の整備なくしてはスリランカの未来は暗いが、鉄道の整備はさらに大切だと思う。 初めてスリランカを知った観光客とは異なり、フリースタイルの旅を5回も繰り返すと色々なスリランカが見えてくるものだ。 9月18日土曜日 RSSLとの懇親会 17日深夜に着いたといっても紛れもなく日付は変わり18日になっていた。朝から無線チームはアンテナ建設に専念し観光チームはコロンボ市内観光に向かった。
昼は現地アマチュア無線組織「RSSL」との交流会がコロンボの中華料理店「錦城」で開催された。懐かしい錦城のゲートをくぐるのは何度目だろうか。 無線チームもこの時ばかりはアンテナ建設を中断してニゴンボから駆けつけ盛大な昼食会となった。ビクター会長やアーネスト顧問ともすっかりお馴染みとなり記念品の交換や、何より新しく18人がRSSLの正式メンバーとして迎え入れられた。我々と親愛なるRSSLとの新しい歴史の一歩が始まったことを意味する。 アーネストさんから招待を受けた 懇親会の後、私を含む5名が4S7EA・アーネストさん宅に招かれ奥様の手作りサンドイッチや本場のセイロン紅茶のもてなしを受けた。
アーネストさんはスリランカを訪れる日本人ハムなら世話にならない人はいないくらい有名な方で、日本で言う通信監理局に当たる役所のOBであり今も我々に協力を頂いている。 その間観光チームは実質首都であるコロンボの旧市内を歩き、ショッピングなどを楽しんだあと初体験の列車の旅を楽しみながらニゴンボまで戻ってきた。 列車に乗り損ねた私としては少し残念であったが、その夜は全員が揃う初めての晩餐会で無事到着を祝い明日からのそれぞれの行程に幸あれと乾杯し宴は盛り上がった。 来る友、去る人 この夜メンバーの種村さんが名古屋時代お馴染みだったスリランカ人夫妻の訪問があった。今は大学の教授とのことで翌日からロンドン暮らしだとか・・この旅もいよいよ国際的になった印象を受けた。
食後世話役が現れた。何でまたこんなところに登場するのか?と言われれば説明に時間がかかるが、放り出せば債権回収ができないため仕方ない人質みたいなものだ。 結局何の進歩も無かった。お人よしもきょうで終わりにしよう。明日は観光組をアヌラーダプラに見送る日だ。 9月19日日曜日 無線、観光初めての分離旅行 観光チームのアヌラーダプラ出発を朝8時半と決めた。観光チームは20名ホテル残留無線チームは11名である。私は残留することになったのでこれ以降の観光チームの動向は写真でしか判らないが、暇になると思えたがこの日から私の仕事は結構忙しくなることが決まっている。
本来の予定はスリランカ観光局やTRC−SL(スリランカの通信局)と調整の為の時間だったが、すっぽかしですべて中止となった。 昨晩の不愉快なやりとりを忘れ気分一新早朝の海岸を歩いてみた。インド洋は広い。帆を張った漁船が大きなうねりの中で漁を続けている。ニゴンボ近隣は漁業の町であることがわかる。 ブルーオーシャニックビーチホテル 我々のホテルは、ブルーオーシャニックビーチホテルといい、インド洋の西海岸沿いに面しリゾートホテルが続く中の一つである。グレードはレギュラークラスで設備としては可もなく不可もないがスリランカ流のミスを認めない金銭面で要注意ホテルでもある。 低い垣根をまたぐとすぐに細かい砂のビーチが広がり、この境界線を越えたとたん待っていましたとばかりに物売りのおじさんが近づいてくる。決して押し売りすることはなくマナーも良いので一般的な観光地とは異なり比較的上品な販売スタイルだ。
観光チームを見送る 20人になってもバスに荷物を積み込んで出発となるとロビーは賑やかだ。今回の試みである無線と観光チームのセパレートがいよいよ開始される。初めてのスリランカを知るにはやはり主要観光地であるアヌラーダプラは避けられない。十分楽しんで来てほしい・・気をつけてと祈りながらバスを見送った。 地元のアマチュア無線家の訪問と無線機 無線チームの様子を見てから部屋に戻りパソコンいじりを始めたが10時半頃電話が鳴った。4S7EAアーネストさんからだ。聞くとロビーにいるというので急いで下りて行った。4S7KMの車でわざわざ訪ねてくれた。そういえば今日は頼まれた無線機を彼らに手渡す約束の日だ。
スリランカでアマチュア無線機器を購入するのはかなり面倒だ。もし機器を手にいれても購入先などの証明がなければ登録できない。ここが日本と決定的に違うところで、好奇心はアマチュアなら同じだが金を出せば誰でもその日から電波が出せるものではない。 遅れてきた4S7CFを同行して池田クンのいる無線ルームで機器の受け渡しを行った。ドネーションする機器を含め、手にした新品のトランシーバーに思わず笑みがこぼれるのはいずこも同じアマチュアの素直な姿である。無線ルームでの談笑はつきなかったが1時間ほど話をして彼らは引き上げていった。 アマチュア無線は高度の交際派スポーツ 一般の人たちには何が面白いのか理解できないようだがアマチュア無線に魂を注ぐ無線チームの面々はそれぞれに個性的で良い意味の国際人だ。見かけだけでは判らないがてきぱきと目的をこなしていく。本業の仕事も同じかどうかは定かではないが・・。 この日午後から電波の相互干渉避けて別棟の3階に新しく無線室を設けそれに伴いアンテナを建設した。また遊び場が一つ増えた。 遅れてきて早く帰る旅人 今年は32人の参加者だが、一人だけ2日遅れでこの日深夜コロンボ空港に着く。そしてそのまま車を乗り継ぎアヌダーラプラまで向かう行程だ。その西井さんを出迎えるためにとにかく空港まで迎えに行くことにした。深夜なのでもしもの事があってはいけないので宮本さんを誘い好奇心旺盛な谷川君をボディーガードに仕立て空港に向かったが入り口の警戒はやはり厳重で昔の緊張感を思い出させる。
今回も多くの初体験があったが、旅行者の私が遅れてくる友人を空港まで出迎えに行くのも初めてだ。この為、とにかくホテルで安全な車を手配し値段交渉をしなければならない。西井さんの移動は現地の旅行会社に任せたといっても放っておく訳にはいかない。メンバーのサポートも私の仕事の一つである。 実は西井さんの深夜移動は旅行会社とかなりもめた。旅行会社からは深夜の移動は危険だから翌朝にしてくれと強くいわれたが、意味は理解できるがそれなら翌朝移動してホテルに着いても全員がもぬけの殻では一日何をするの?が交渉の原点だった。 それなら車代と場合によってはガイド料を負担しろ!ときた。旅行者を安全に旅先に移動させるのは仕事だろう・・これに請求する気か? どうしてもそういうなら金は払うが来年から旅の世話にはならない・・と通告した。これは西井さんにごちそうになっても良いくらいのバトルだった。 その結果当然ながら負担なしに迎えの車を確保できたことになる。西井さんは予定より早くロビーに現れた。予想通り大きな荷物はなくザック一つの軽装である。 旅行会社からの運転手とも上手く合流し、くれぐれも気をつけるようお願いし空港から彼を送り出した。キャセイ便は関空、台北、香港、バンコク、コロンボのルートを巡りずっと機内食攻めで食疲労気味であったそうだ。 後日談では道中深夜の車両パンクで、暗闇で蚊に刺されながらもだえたそうだがとにかく無事に移動できたことは嬉しい事だ。 空港の警備員は英語を話さずシンハラ語しかしゃべらないので閉口したが、とにかく130ルピーを支払えば空港内に入れることが分かった。 その間に持参した日本製のうちわを奪われたが、ここで爆弾が破裂するのかと言うくらいスリランカ人は我々に警戒心などなく不思議な感じがした。空港からホテルに戻った時は、20日の日付に変わっていた。 |
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9月20日月曜日 のんびりとは無縁 日本で詫びを入れてきたので先発隊として仕事を任せたものの、母国に戻った世話役は与えた支度金をまず家族サービスに使い何もしなかった。このため何もない退屈な日を迎えると思ったが結果は全く逆になった。 きょうから極めつけの事件処理、パスポート再発行の手続きに入ることになった。空港で突如消えたパスポートを奪還する為にコロンボの警察と大使館を巡ることになった。 パスポートの再発行 きょうはパスポートを無くした池田クンの帰国を保証するための日だ。こればかりは本人の出頭を必要とするのでまずは車の手配などの準備を前日からおこなった。 もちろんサポート役は宮本さんで今回はすべての雑用を含めて大変お世話になった。池田クンを伴ってとにかくコロンボ市内にある旅行会社に向いガイドと落ち合うことにした。 ホテルタクシー スリランカのホテルタクシーはポンコツが多い。日本で下取りしたものや廃車になった車を使い続けているのだから当然だが、この日の車はフロントガラスに輸出時のマーカーペンで文字が書かれたままでしかも販売用の大きな紙が貼られている。いつまでもビニールカバーを外さない車を日本でも見かけるが、フロントガラスにセール用の紙を貼ったまま走る車も滑稽だ。 運転手によれば新車で我々が初めての客だと話しかけてきた。新車と言われてしげしげと社内を見渡したが完全な新車ではないようだ。宮本さんの弁では新車に近い事故車の修理品では・・とのこと。さもありなんと思いながらも車はコロンボ市内に近づいてきた。 車公害
コロンボの渋滞は激しい。それよりも空気が汚いことが気になる。そりゃインド製のバス、トラックや日本の規制前のディーゼル車や整備不良車が我が物顔で走るのだから綺麗な空気は望めない。おまけに2サイクルの三輪タクシーの煙が充満するのもいただけない。イギリス領だったからといって霧の町コロンボになってもらっては困る。その昔ロンドンの霧は石炭のスモッグだったようだがやがてスリランカの自動車公害はますます深刻になるだろう。 パスポート再発行に何がいるのか さて、パスポートの発行に必要なものといえば警察の証明書、写真そして日本大使館での手続きである。こういう事もあろうかと32人全員のパスポートの写しを持参していたので今回これがいかに役立ったかおわかりだろう。 まずパスポートに必要な写真を撮りにコロンボ市内の写真屋にいった。最初ショッピングセンターの3分間写真を使おうとしたが、池田クンを車椅子のまま撮影することは難しく、町の写真館に移動した。写真館といっても汚いスタジオにデジカメと富士フィルムの即席ラボ用のプリンタがあるだけだ。サイズに対して顔が大きく写っているがまあいいか・・で、次は盗難証明を貰うためにコロンボ警察に急いだ。 刑事コロンボに会う コロンボ警察の隣は大統領執務室で外壁の頂上には一定間隔で武装した兵士が機銃を構えて監視している。敷地につながる警察の敷地には人の良さそうな警察官が入場者のチェックをしているが隣の重装備をしている兵士とあまりにもはかけ離れ頼りなく見える。どう見ても大統領の警備兵に守られているようにしか見えない。 警察の受付を済ませたがここで書類に不備があることがわかり、ガイドが書類を書き直しに会社に戻ることになってしまった。その1時間ほどで受付の警察官とすっかり仲良しになった。
警官が一番気にしたのは池田クンが持っている首からぶらさげたボールペンで、欲しそうな表情が容易に分かる。池田クンもこれくらいやっても良いよ・・だったが、賄賂はあかん!と言ったものの警官は後ろにいる上司に気遣って目配せをしていたが結局プレゼントすることにした。後ろに上司が居るからと小さくジェスチャーで訴える仕草が実にかわいい。 私はそれよりも受付警察官の後ろにある大きな木箱が気になっていた。聞いてみるとどうも重要な持ち出しものや、武器がはいっているようだ。 自爆テロの現場 そのうちまた警察官が話しかけてきて7月にこの場所で爆弾テロがあって死者が出たよ!壁の血糊は塗り替えたけど爆弾の跡は消えていないと床と机を指さした。 そう言えば外務省のスリランカ情報に7月の自爆テロの情報が掲載され、我々のMLでも流したことを思い出した。その舞台となった場所に座っている事が不思議な感じがした。
宮本さんとやっぱり警察は一番危ない場所なのだなあと話し合ったが、うら若き女性が警察の向かいにある省庁の大臣暗殺を企てたものの警察官に怪しまれ警察署に連行され、もはやこれまでと自爆したテロ事件は今のスリランカを象徴しているようだ。 それより犯人はもちろん同僚を含め数人が死んだその場所で、しかも弾痕や爆弾でえぐれた床をそのままに血痕だけを塗りつぶした職場で、ボールペンを欲しがる警察官にスリランカの複雑な状況を見る思いがした。 警察にも特急料金 さて、池田クンの証明書はどうなったかと言えば最後は我々を残しガイドと警察官のスリランカ人同士の交渉となったようだ。警察官から普通はすぐに発行出来ないが日本人だから困るだろう・・・困るだろうから何とかしてやる。ついては後で訪ねて行くから住所を書いておけ、という会話だったようだ。 我々は日本人として賄賂を差し出すつもりはない。しかし特急料金なら喜んで支払う。宮本さんはうん!特急料金なら問題ない・・と同意した。どこが問題ないのか分からないがこうして池田クンの証明書はできあがった。 因みにこの警察官の名前を聞いたら「刑事コロンボだ!」と名乗ったという話はその夜、爆笑を誘った。 日本大使館 スリランカの在日本大使館はコロンボの一等地にある。警備は厳重で携帯電話やカメラは警備室で保管され厳重な警戒の中を進まなければならないが、池田クンの車椅子が通常のゲートを通れないために警備室を経由しショートカットで内部に入ることになった。 私の出で立ちは白いアディダスの帽子、Tシャツに短パン、首からカメラをぶら下げサンダル履きで日本では決して見せることのないスタイルである。 宮本さんはさすが善良な日本国民で正装とはいかないまでもきちんとした身なりをしている。別にネクタイでなければ入れてくれない事はないだろうがささやかな抵抗でもある。 携帯電話やカメラ等の持ち込み禁止であるのに警備員は、私の首から提げたデジカメもフリーパスで敷地内に入れた。ここは紛れもなく日本であるから、日本人には比較的緩やかな対応であることは確かなようだ。 ここは俺たちの税金なのだからと言ってしまうと品位が下がるのでぐっとこらえたが、案内された受付はすこぶる印象が悪い部屋だった。 室内はビザを求めるスリランカ人で溢れている。待たされた退屈しのぎにその数を数えるとその間にも段々人が増えてピークでは70人を越え扉の外のそのまた外に続いている。 奇妙な受付 狭い部屋には受付窓口が二つあって右側には日本語で日本人受付、そして左側に英文でビザ発給窓口と書かれている。この窓口が実に奇妙な作りで完全にこの部屋と奥の別世界とを隔離させている。つまり受付のガラスは透明ではなく反射ミラーで遮られ自分の顔しか見えない構造である。相手からは見えていてこちらから見えないことに気づくのにしばらく時間がかかった。鏡に向かって自分の顔を見ながら相手と話すことを想像すると失礼にもほどがあるではないか・・!
不愉快な構造 別世界とつながる空間と言えば海外の銀行やチケット販売窓口のように書類と現金がくぐり抜ける小さな隙間しかない。こちらからは何も見えないが相手から観察されるという実に不愉快な構造になっている。 書類を出してからもなかなか呼ばれない・・こうなると紛れもなく日本の主権がおよぶ大使館である。日本人的ないらいらが募ってくる。その中でただ従順に待ち続けるスリランカ人の静けさがこれまた異様に感じる。 スリランカ人からみれば、我々が異様に見えるかも知れないが日本に行くためのビザ申請だから日本語の堪能な者も多くいるはずだ。 ここでギャグを飛ばして笑った奴はきっと日本語の能力は高いはずだ。笑ったら無条件でビザを出してやれば良いのに・・つまらない事を考えながらも待ちくたびれてしまった。 狭い、長い、高いパスポート待合室 待合室に備えられた4日前の朝日新聞に目を通しても出かける前のニュースで新鮮味はない。海外在住者に投票を呼びかけるパンフレットも風化して何も面白くはない。 ただ大使館からすればこんな用で来る日本人など相当な迷惑者で待たせるくらいでぐずぐずいうなと思っているのだろう。
ガイドのために同行したスリランカ人にこんなに待たされて誰も文句を言わないの?と聞いても小さな声でそうですとしかいわない。スリランカ人はだれひとり表情を変えずに黙り込んでいる。おい池田クン強烈なギャグでも飛ばして笑いをとれよ・・・・。 スリランカ人は生真面目か 70人も人がいてあまりに静かすぎるのも変だ。この部屋にはきっと盗聴器があって不利な会話をするものにはビザを出さないシステムだろうか・・・日本に行くためにビザの発給を求めて毎日大使館にやってくるスリランカの若者はどんな気持ちなのか少し気になっていた。 何度も行った中国でも日本大使館の周囲は連日数百人が列を作り日本行きを求める光景を見たが、ここでも数こそちがうがスリランカ人にとって日本はあこがれの国であることは間違いないようだ。 ミラーにしなければならない事情 さて、なぜミラーガラスによって仕切られているのかという話になるが、大使館職員の説明によるとほとんどのビザは一回で発行される事はなく数回、いや場合によっては何度足を運んでも発給されない事もある。 受付は当然英語、シンハラ語、タミール語と日本語を話すスリランカ人がその対応に当たっている。そこで何度足を運んでもビザを得られないスリランカ人はその矛先を受付のスリランカ人に向ける。 その昔顔が見えるガラス越しの対応をしていた時代に、ビザ発給を巡って嫌がらせや相当深刻な問題が発生したそうだ。現地人の職員が恐怖を抱いて仕事が出来なくなったため仕方なく鏡張りにして顔が見えないようにしたとのことだった。 恨みを抱くと顔を見たスリランカ人はどこに住んでいる人物か言いふらすそうでこれはスリランカでは危ない仕事なのだそうだ。 とにかく事情は理解できたが、もし日本で同じ事をやると相当問題になるだろう。今時こんな事を堂々とできるのは警察の取調室か暴力団事務所の玄関くらいだろう。すこぶる精神衛生上落ち着かない場所であることは間違いない。 大使館職員と面談 根比べをしていたとき自動ロックの奥の部屋から茶髪の日本人が出てきた。どうみても職員ではなさそうだが私に小さく会釈をしたのでこれは同じ穴のムジナかなと感じた。この顔つきならパスポートくらい紛失する人相だ、結構同じ失敗の人が居るのかな・・少し安心でもある。 それにしても待たせるなあ・・。そろそろ待たせるのもええ加減にせんか!池田クン!邪魔くさいからこのままずっとスリランカで暮らしたら・・と言おうとしたとき「長谷川さん、どうぞお入りください・・」とネイティブの日本語が聞こえた。 親切な対応にびっくり お入りくださいと言われても狭い入り口で池田クンも車椅子を回すのに苦労している。中に入ると4人で一杯になるカウンターがありようやくその構造が読み取れた。 振り返るとさっきまで鏡にしか見えなかったガラス越しに待合室の様子がくっきり見える。あれ、これでは写真の隠し撮りがばれているではないか、文句を言っていたのもみんな聞かれたかな・・・。 ただこの部屋にはスリランカ人は入れてもらえない。日本人職員は「大変お待たせしました。申し訳ありません・・」と丁寧な対応である。あーさっき出て行った茶髪のお兄さんが先約だったから待たされたのか、この時理解できた。 パスポートは再発行か帰国保証か 大使館に入る為には入場申請書が必要だ。ここは日本だから漢字で用がたりる。サインは私のものだから職員は「長谷川さんどうされました・・・」の問いかけから始まった。 事情を説明しドジな奴のために珍しい体験をしなければならなくなり、無駄な税金を使わせ申し訳ないと言うとこの方もかなり面白い方で「一番気にしているのは池田さんですし、そう言わなくても落ち込んでいますよ・・」ときた。ここで話が終われば良かったのだが「イヤーどう見ても反省しているとは思えないのですけどね・・」笑いが広がった。針のムシロは池田クンだ。 職員から「ところで池田さん、帰国には二つの方法があってパスポートの再発行を受けるか帰国を保証する証明書を発行するかの二通りがあります。どちらを選びますか?」の話が出た。 パスポート紛失の場合、無くしたと大使館に駆け込んでくるが2,3日で出てくることが多いそうだ。これは遺失物として届く事を含めての統計だそうだ。このためもう一度確認しなおして決めてくださいとアドバイスがあった。 但し意図のある中国人の手に渡ると絶対戻らないしそうなれば早く処理しなければならないとの話であった。 今回の池田クンの場合は17日深夜にすでに紛失に気づいていたが土日をはさんでこの日出頭したわけだからその間十分に探したことになり迷わず再発行を希望した。 ただスリランカに限らず在外公館で発行されたパスポートは自動読み取りができないので出入国にちょっと面倒だ。 特にアメリカへ入国する場合かなり面倒なことになるので再発行は慎重にとアドバイスされた、さすがに池田クンもギョッとしていたが、ここまできたら覚悟を決めて素直にお願いする選択をしたようだ。 処理の速さに驚く 小一時間書類書きと説明を受け、東京からの返信を待っていたが、何と間もなくこれで出来あがりますから明日午前中に取りに来てくださいと東京からの照会書類を見せてくれた。日本はすごい、その素早さに驚いた。待ち時間1時間だが処理時間もわずか1時間足らずで日本の外務省もよくやるじゃないか・・少し見直した。 何より大使館のIさんには非常に親切に対応して頂いた。ロンドン赴任の後スリランカに来られたそうであと半年くらいで出国できそうだ・・とかなり雑談が出来るほどいい雰囲気の時間になった。ただあまりこんなところには来ない方が良いですよ・・・その言葉には多くの意味が込められていることを感じた。 9月21日火曜日 コロンボにきょうも出勤 昨日と同じ時刻、池田クンのパスポートを取りにコロンボまで出かけた。無線をするための池田クンをホテルに残し昨日打ち合わせの通り私が代理人として受けとることになっている。池田クンを残したのは大使館に入る場合や移動に時間がかかることもあるからだ。 この日は帰りに無線チームからリクエストを受けた紅茶を仕込むためポーター役として谷川君を誘った。力仕事は彼の役目になっているが、担がれている方が担ぎ手より大きいのは不公平に見えるが谷川君の活躍にも感謝している。この勇ましい姿を日本にいる彼女に見せれば国際携帯電話でチョメチョメやるよりずっと効果があるのにと思うのはメンバー全員一致した考えのようだ。 新品のパスポート 2度目の大使館は手慣れたものだ。今度は電話とカメラを自主的に差し出し番号札をもらって鏡の受付の前に立った。用件票を鏡の下のくぐり口に差しだすとすっと消えたと思ったらすぐに長谷川さんと呼ばれた。 これまた鏡のドアを開けて入ったら昨日のIさんが谷川君を見て、きょうはメンバーが違いますねと驚いたような表情だった。本来は当事者しか入れないようだが、貴重な体験なのでちょっと見学をさせたいので・・に苦笑していた。 お陰様で池田クンのパスポートは見事に完成した。よしこうなったら池田クンに帰りの買い物中にまたパスポートを盗まれた、と言って驚かそうと言ってやろうと考えていた頃池田クンは庄治さんからパスポートを借りて私が帰ったら「ごめんさっき出てきた・・」と言おうと準備していたそうだ。 懲りない池田クンの遊び心には笑ってしまう。海外でのパスポート紛失は大事件だが、これをネタに遊ぶとはいい度胸をしている。 参考までにいうとパスポートを無くした場合海外旅行保険で対応出来るのは盗難にかぎる。単なる紛失では補填されないから警察の証明にもその旨記載が無くてはならない。通常5万円まで保証されるが紛失はだめなので盗難証明を貰うことだ。 因みにパスポート代金は日本円で1万円を少し越えるから現地では相当高額な支払いである。 紅茶を買うならスリランカ紅茶局がいい スリランカといえば紅茶を思い浮かべる。セイロン紅茶の歴史に興味のある方は調べてほしいが今回ルフナ地方の低地栽培の紅茶工場に行った。
紅茶の気取った飲み方は高く売るための手段の一つだが、イギリスなどでも庶民レベルで飲む紅茶が驚くほど美味しい事に気づくと意外と常識など当てはまらないことがわかる。 スリランカ各地の上質の紅茶を取りそろえているのがスリランカティーボードの看板がある政府紅茶局の直営店である。ツアールートに乗ると永遠に行くことが出来ないところである。 なぜなら観光業者がここに客を連れてきても一銭の利益にもならないからだ。ここを知っているのはよほどの通である。今年も旅行会社の運転手にティーボードに行くように頼んだがあれだけわかりやすいメインロードにあるのに何回も車を停めて道を聞いた事からみて行ったことがないようで観光業者にとっては迷惑な政府直営店でしかない。 スリランカの買い物ならスーパーマーケットだ スリランカで塩を買うと言えば笑われるかも知れないが、ミネラル分の多いインド洋の海水からとる塩は隠れた人気だ。しかしこれほど重くこれほど安い土産はないがこの重さに耐えるには相当体力がいる。パウダー状のものより粒状のものが珍しく価値があるように思うが実際に使うとなると粒状のものは鍋の底に残り溶けないでいる。短時間の調理にはパウダーが便利だ。貰って迷惑な事はないが、日本に持ち帰るにはかなりの迷惑品だ。 紅茶にしても英文表記のないお馴染みのカエル文字、シンハラ語だけの良質の紅茶も手に入るのが町のスーパーマーケットで、旅行業者を案内しリベートを受け取るための土産物店より遙かに面白いし経済的だ。我々の旅はツアー旅行では味わえない事が出来るのも楽しみの一つである。 観光チームが帰ってきた コロンボでパスポートを受け、買い物を済ませてニゴンボに帰ったが観光チームはまだ帰りつていなかった。今夜は久々に全員が集まるためにスリランカのワインを抜いた。スリランカらしい騙しの勧めに従ったので過去最高の酒の消費量になった。
この日は小永井さんの友人でもあり今スリランカに在住しているアマチュア無線家の小林さんが遠路駆けつけてくれた。ロビーではスリランカの民族舞踊が披露され賑やかな夜になった。さあ観光チームはあすから南の町に移動だ。 |
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9月22日水曜日 またチーム別行動になる 朝6時がモーニングコールに設定された。出発は8時。早く目が覚めたので海岸に出てみた。砂を巻き込んでいるのでニゴンボビーチの波打ち際はお馴染みのインド洋の色にはほど遠い。
アンテナの点検をかねてプールサイドに行くとプール清掃をしていたおじさんが話しかけてきた。このアンテナで何をしているのか?「ムセン」これはずっと建てたままか?「カエルマデ」恐らく殺気だった形相でアンテナを建てているときには声もかけられなかったのだろうが、私になら聞いてみようという気になったようだ。ただ言えることはアンテナを歓迎している訳ではないということだ。 バスのトラブル 25人が南の町に移動するとなるとやはり大きなスーツケースの積み込みに時間がかかり出発は30分遅れの8時半を過ぎてしまった。 途中休憩しながらのんびり走ろうと思っていたが、バスの左後輪がパンクしたためタイヤ工場に横付けした。工場と言っても日本で想像するようなものではなく単なる街角のタイヤ屋さんだ。
ただ大型車のタイヤ交換が珍しかったのかおじさん世代のメンバーは昔さながらのレバーをテコ代わりに使うタイヤ交換に夢中で見守っていた。こんなに面白いなら来年から正式な観光ルートに加えようかと思ったくらいだ。 すさまじい両替経験 どのくらい時間を経過したか定かではないが大幅に時間をロスすることになった。バスを走らせながら宮本さんからこれから向かうところは田舎のようだからその前に円をルピーに交換しておきたいと相談があった。 そこでガイドのビー君に銀行に立ち寄るように頼み、とある街角の銀行に入った。日本円で12万円ほどをルピーに換えるだけだったが機械化など全くされていない銀行でまず案内されたのはマネージャーの部屋で正面に座らされた。まるで面接されているようだが相手は我々に目を合わさない。 そこでまず始まったのが本を引っ張り出して日本円の偽札の記録をくり出した。次に一枚ずつ番号を調べ始めたものだから不吉な予感がした。 この予感は見事に的中しそれから40分ほど金を持った行員が我々の前を通りマネージャー室に行ったり来たりで、あまりの遅さに心配したバスの助手がわざわざ銀行に見に来たくらいだ。 スリランカの常識から推し量ると儲かりもしない両替を頼んで急げと言うことは失礼な話で、礼を言ってもらいたいのは銀行の方らしくでこれがスリランカの正式な感覚のようだ。結局ここでまた1時間のロスを作ってしまった。 遅れたもう一つの事情はルピーに交換したのに明細を出さない。これでは空港でドルにも戻せない、この抗議でまたマネージャーに相談に行き渋々書類を書いたためだ。 二度あることは三度ある のどかな田園風景を眺めながら初めての町、宝石で有名なラトウナプラに入った。もうすぐラトウナプラインホテルに着く予定だ。舗装されていない狭い山道にさしかかった時バスが止まった。見ると道路にジャックフルーツの大木が倒れ道路の半分を塞いでいる。 残り半分でバスがようやく通過できそうだがその上には裸線の電線がバスの屋根に触れている。240ボルトの裸線は危険なので進めなくなってしまった。
このとき昨年のトパーズホテルでの忌まわしい思い出が頭をよぎった。おまけに今回は雨になってしまった。トパーズの失敗を繰り返さないためにバスを降りて山道を歩いてホテルに向かうことにした。歩き始めると最初に聞いていた500mなどとんでもなく、距離単位はスリランカメートルのようだ。 途中1台のバジャージが下りてきたので早速停めホテルに行ってもらう事にした。それから同じく歩いて山道を登り始めた愚妻を迎えに行ってもらいホテルと交渉を開始した。それによると木が倒れているのは知っている。今、車と道具を取りに行っているから少し時間がかかるとの説明だが一向にその気配がない。ロビー下に1台の車があるので聞いてみるとあれはホテルの車ではない。 またここで2度とスリランカに来るものかという気持ちになるのかと思うと、同じ事を繰り返そうとしていることに笑いがこみ上げてきた。 いらいらしていたが、バスが登ってきた。聞くと近所のおじさんが斧で大木を切り谷に移動してくれたとのことだ。何だ!ここでもホテルは何もしないのか・・この民家のおじさんには感謝そのものである。 何とか遅がけの昼食を済ませ急いで紅茶工場に行くことになった。紅茶工場は4時で閉まるというのを30分延長してもらった。 紅茶工場 今回の旅にどうしても紅茶工場見学を入れたいと旅行会社に申し入れていたが実現できる事になったのは直前のことであった。理由は我々の行程に見学できる工場がないことがその理由だった。 話によると旅行者の見学を歓迎する紅茶工場は4つくらいしかなく、これらは観光用工場でまともに紅茶を生産する気のない見学専門の工場もあるとのことだ。
今回の工場はHidellana Tea Factoryと言ってラトウナプラにあり、分類からすればルフナ紅茶であるがここは見学用の工場ではなかった。 見学を終え紅茶を買うことになって初めてここには売店が無く、販売する紅茶は500グラムと1キログラムしかないことが分かった。 しかも25人が数個ずつ買うほど用意しておらず、品切れして慌てて袋に詰め始めたようでかなり時間がかかった。あまりに待たせるのでバスから再度工場に戻り残りの紅茶はホテルに届けてもらうように頼んだがそれは無理だと言われた。それなら私が残るからみんなを先に帰すよう準備をしていたら大きな袋が運び込まれなんと私の目の前で詰め替えた紅茶が床にばらまかれた。 一応食品であり売り物で、しかも買い手が見ている前で何と大胆な奴らではないか。当然我々を待たせることにためらいなど無い。 そばにいたマネージャーに何故販売用の紅茶をもっと用意していないのかと聞くと、紅茶が欲しいと聞いたのはお前さんらが来る10分前のことだ。ましてやここは紅茶を小売りするための工場ではない。つまり便宜を図って用意しているのだから文句を言う方がおかしいと言うわけだ。 ガイドのビプル君はただおどおどするだけで何の役にも立たない。銀行でもホテルの支払いでも我々が不利益を被っているにもかかわらず結局何も出来ないのがスリランカのガイドの特徴だ。 彼の弁をによれば「言っても同じですから僕は言わないようにしているのです・・」だからやはり1505年のポルトガル侵略時代にとったスリランカ人と同じことを今でのやっている。交渉の出来るガイドはスリランカではこれから人気がでるはずだ。 知りすぎることから起こる悲劇 昨年のガイドもトパーズホテルでのトラブルには最後には口つぐんでしまった。ガイドの立場は嫌われると仕事に影響するから大事なのは国内の付き合いが一番で決して単発の観光客側つくことはない。特殊なのは我々日本人の方かも知れない。 これは正義論や商業論ではなく、あくまで個人を最優先するお国柄がそうさせているのであって、彼らの意識にある真のサービス精神は我々と根本的に異なることを認めなければならない。 一番大事にしなければならないのは観光客ではなく直接仕事をもらっている旅行会社やホテルであり、まさにこの優先順位を守りながら生きているだけのことである。 とにかく見学を歓迎しない工場でそれも時間外に押しかけた我々は歓迎されていなかったということになる。 もしこれが嫌なら旅行会社のプラン通りに決められた観光地と土産物店をバスで巡りながら旅をすれば嫌な思いをすることはない。あまりにもスリランカを知ったために起こる悲劇の旅をしていることになる。 ラトウナロカインというホテル
我々にとってスリランカ最後の世界遺産シンハラジャの森に行こう・・が今回の目的の一つだった。そこでこの森にアクセスするのに一番近い大きな町を選んだら、宝石の町ラトウナルワが宿泊地になった。 紅茶工場で手間取り宝石の採掘現場は雨で行けない事が分かり、宝石博物館に行くことにした。どこにあるのかといえば、実はこのホテルがその場所でこれほど便利なことはないがこれほど期待はずれもない。ただ少しは宝石の勉強が出来たかも知れない。 旅行会社によるとこの町には高級ホテルはなくシャワーもお湯が出ないホテルがほとんどだという話だった。途中から水に変わるホテルでの経験があるのでシャワーはお湯か?という質問を夏頃現地にしたがそれほどひどくはなかった。 あの山道を考えるとどうせ期待など出来ないと思っていたが、レストランはオーオプンテラス状で食事も馴染みのブッヘスタイルではない。茶畑にかこまれ鳥のさえずりの中の良い環境だ。 ホテルは築後25年だそうで清潔に整えられているが水回りは古く蛇口が壊れたとの報告も受けた。 私の部屋もボーイがきてドアを開けようとノブを回した途端レバーが抜けてドアの開閉が出来なくなった。レバーを引きちぎるほどうちの女房に力があったとは思えないのでこれも25年の歴史の産物だろうか・・。明日のために眠りについた。 9月23日木曜日 スリランカ最後の世界遺産 さあ旅の行程も終盤に入ってきた。シンハラジャの森を見学して最後の町ゴールを目指す一日の始まりである。大型バスからジープ〈ジープもどきといった方が良い・・〉に分かれて乗り、中継点となる奇妙な岩のホテルから再びシンハラジャの森の受付事務所に行った。
途中よくこれで走れるなあと感動するような整備不良のジープに便乗するのだから面白いが不安だ。正直危険きわまりない乗り物だが避けることができないのが辛い。 とにかく命の値段が極端に安いスリランカのスタンダードを体験するのだから、ただ幸運を祈るのみだ。ある程度の犠牲を払わなければ改善されないスローモーな姿勢は観光立国にほど遠いスリランカの現状が見えてくる。 旅の安全は自らが守るものであることを知っていても、選べない中で危険に遭遇することは旅行者にとって最も不幸なことである。 森に入る心構えとしてみんなの服装は長袖、長ズボンで毒蛇やヒルに対する備えをしてもらった。入園に先立ち森をビデオ撮影するには500ルピーが必要と聞けばそんなに価値のある映像が手に入るのかといやでも期待感が大きくなる。行程は往復2時間とのことで重々しいゲートをくぐり未知の世界に飛び込んだ。 しかしいつまでたっても延々と続く未舗装の道から逸れず、いつその密林に入るのかと期待したが一向に森に入る気配がない。 みんなからいったいどこに行くの?の声が聞こえてきたが、この時同行したガイドはサンダル履きでどう見ても密林を案内する格好ではない。 先頭を歩きながらこのガイドに聞けばこの道は森に入る誘導路で、左側がオリジナルの森だそうだ。密林に入るには許可が必要で案内人をつけなければ危険である。毒蛇や象など動物の宝庫だが登山用の装備が必要で何日も泊まる準備がいり我々の服装では無理であるなどの説明があった。 つまり単なる観光客はこの道路を歩いて50メートルの大木を見て森を想像しろ!というのが標準的なコースのようだ。あーこれでは騙し絵みたいだ。 見せ場はカーチェイス 大木ならヨセミテ公園の方がすごいし、見せるものがないならそう言えば良いのにビデオ撮影に500ルピーなどと聞けばすごいものを想像し期待してしまうではないか。シンハラジャの森に観光客が行かない理由が分かったような気がする。スリランカの旅行会社がシンハラジャの森のツアーをやれば二度と客はスリランカに来なくなるのを知っているからだ。
この森の一番の見せ物は世紀の整備不良車と排気ガスを吸い込むカーチェイスだったのが残念でもある。 ただ私にとってはスリランカ観光の行方を垣間見ることができていい経験になった。 ただメンバーの評価は必ずしも同じではない。この旅で一番すばらしかったところはこのシンハラジャの森だったと言ってくれたメンバーが二人もいたことが嬉しかった。 評価は個々に違って当たり前だが本当のスリランカを知るには一度は訪ねなければならない場所であり我々のチャレンジ精神は健在であるということは示しておきたい。 吸血ヒルとスリランカ流稼ぎ シンハラジャの森では重装備にもかかわらず数人が吸血ヒルに血を吸われズボンまで真っ赤に染まる経験をした。サンダル履き素足のガイドに取り付かず、ハイソックスの中にズボンの裾を折り込んだ我々に取り付くスリランカのヒルは、まるであの不快なホテルのマネージャーの根性に共通するようだ。
ここで見た動植物は猿一匹、天然の蘭の花、15センチを越えるヤスデの成虫やそして小魚位であった。これらが500ルピーの映像の代償とはどう考えても納得がいかない。 しかし、この森の価値は2時間の観光客に見せることは出来ないしひょっとしたらこのシンハラジャの森がスリランカ最大の観光地になる可能性は十分にある。 もし時期が来たらこの森に泊まり込んでジャングルを歩いてみたい。森のヒルの粘り強さを垣間見て日本人が失った根性は見直さなければならない! 前を走る整備不良車の排気ガスに閉口しながら車がホテルに戻ったのは3時になってしまった。歩行に支障のある三浦さんを残したホテルでようやく昼食になった。遅すぎる昼食ではこれから向かうゴールの夕日に間に合うだろうか・・ バスが安全運転になった
ひたすら走るバスの心地よい揺れに眠りにつくものが多い。今年驚いたことはあの戦闘機のようなバスの疾走がないことだ。今回も最初と同じバスでドライバーも同じだが、今まで決して追い越しを許さなかったバスが後続車に進路を譲るではないか。どうやら一昨年バス事故があったらしい。事故を起こしてはスリランカ観光局の指導も大きく会社存亡の問題となる。我々にとっては大歓迎だがその代わり時間が読めなくなってしまった。 今日の最大の目標はゴールの要塞から壮大な夕日を見ることだ。とにかく早くゴールに着きたい。しかしバスがラトウナプラを出たのは4時になっていた。どうあがいても夕日など夢の世界のようだ。 夕日はバスの中から バスがゴール街道に入り椰子並木の間を走る頃に期待の夕日の時間になっていた。ゴールでの夕焼けは絶望的なことは分かっていたが走るバスからの夕焼けは何か落ち着かない。それよりの時折降る雨では期待の舞台はまるで大道具が壊れたセットみたいなものだ。
ここまで来ればかえって落ちついてしまう。夜8時を過ぎて見慣れたライトハウスホテルに着いた。昨年のお気に入りホテルであるが明日の出発までの12時間滞在ではあまりにももったいない。 インド洋の波打ちぎわにありプライベートビーチに直結するリゾートホテルならせめて一日はここで過ごしたい。みんなの思いも同じだろう。 サリー美人勢揃い この日の夜は遅いディナーをとり明日に備えたが、最後の夜なので男性の有志は一献かたむけることにしたが女性陣は恒例のサリー着付教室をはじめた。今年は総勢6名が買ったサリーに着替え用意が整ったら私と宮本さんがカメラを持って部屋に行くという手順だ。
6人の美女を紹介すると紙面が足りないが、年代は20歳代の松田さんから次に若い阪本さん、そして順序が不明ながら木村さん、種村さん、長谷川さん、長老格の田中ママとかしましさを通りすぎた豪華な顔ぶれであった。 昨年ここでサリーの正装で残した写真がインド洋の海と空の色と見事に調和し息を呑んだ経験から今年も挑戦したようだ。サリーの色合いをいっそう鮮やかにさせる環境の中で夢が膨らむのだろう。 言い忘れたがモデルの美しさがインド洋の海の色と景色に見事に調和すると付け加えておこう。 9月24日金曜日 スリランカ最後の日 ライトハウスホテルの夜は静かに過ぎていった。このホテルの食事はうまい。唯一いままで苦情がでなかったスリランカでは珍しいホテルで私のお気に入りである。但しビールなどは日本並みでここで勝手にロブスターを注文する奴は重罪である。
私はいつかプライベートでこの地でゆっくり過ごしてみたいと願っている。スリランカは南に行く方が人も良くすれていないように思える。本当のスリランカ人とゆっくり語り合って私の認識の誤りが修正できる日が来ることを密かに願っている。 ゴールのオランダ時代を想う 1650年ポルトガルを追い出したオランダを一時的に歓迎したものの、オランダの悪政は不評だった。その当時真っ先にオランダが築いたのがこの砦である。
砦というのはどの国の歴史にも登場するが、スリランカにおけるオランダ要塞は圧巻である。いまは単なる歴史遺産として観光名所になっているが、私の心は砦の中の生活がどんなものだったか、スリランカ人はこれらとどう関わっていたのか・・・とても興味深い。その中味がわかればスリランカ人の心が理解できるのではないかと思えてならない。 定番の時計台、灯台付近を散策し展望台では観光用ダイビングで稼ぐ少年の売り上げに協力し、300ルピーの海中ダイビングを見ることができた。 ここは物売りのメッカでもある。昨年ここで買った珍しい貝殻は大事に持ち帰り我が家の思い出になっている。今年同じおじさんに会えばもう一つ買ってやろうと思っていたが見かけなかった。病気をしてはいないかな・・それともあの稼ぎでは今頃家を建てて優雅にくらしているのかな、毎年訪れる旅人とのさりげない接点かも知れない。 コロンボを目指して
ゴールの町で昼頃まで過ごしコロンボ経由ニゴンボを目指すつもりであったが、昼食をコロンボのお気に入りレストランで取るために昼過ぎにはコロンボに着かねばならない。早くホテルを出ることにした。もう一つは紅茶の仕入れを済ませていないメンバーに買い物をしてもらいたい。そんな思いがあったからだ。 昼食のレストランはコロンボ市内のセイロン銀行の建物の中にあり、完全なヨローッパスタイルだが完全なスリランカ料理の店になっている。私は3度目であるがとにかく辛いが確かに美味い。 売店の紅茶 レストランの隅には紅茶の売店がありで数人が食事の合間に冷やかしのように眺めていたが一人が買い始めるとうとさすが団体心理でかなりの売り上げになったようだ。もう店を閉めたら・・というヤジにまんざらでもないような嬉しそうな店員の笑顔が今も思い出される。
食事の後はサリーを買いたいというリクエストを受けてお馴染みの土産店に向かった。私は何度この店に来ただろうか。安くはないがここに来ればたいていのスリランカ土産は揃う。紅茶もふんだんにありそれぞれの思いを満たす店でもある。 ニゴンボでの買い物 コロンボの町を離れ今夜飛び立つ空港の前を通った。比較的順調にバスを進め時間の余裕があったので買いそびれたサリー購入のためにニゴンボ市場に立ち寄った。 男性陣はサリーなどには興味がないが、私は職務上女性陣に付き添った。値切り役にガイドのビー君つけたが、昨年のアリさんとは違いシャイな性格の彼は値切り交渉もできず単に通訳を務めるだけであった。だからといって彼が無能というわけではないがプロのガイドとして生きて行くにはまだまだ修行が必要である。
サリーは、確かに安い。コロンボや、観光地の土産店から見ると半額どころではない。買い物は絶対町のマーケットに限る。 無線チームと再会 これで満足だろう・・・1時間のショッピングを済ませいよいよ無線残留孤児チーム6人と再会である。今回の旅の原点ニゴンボ、ブルーオーシャニックビーチホテルに着いた。各自部屋に入り空港へ向かうまでのデイユースの時間だ。 荷物の詰め替えや帰国の準備にそれぞれ追われ、部屋でくつろぐ時間など全くなかった。そんなときアーネストさんや4S7KMなどの訪問を受けロビーで談笑することになった。ビクター会長や秘書のクザル氏も後から来るという話だ。
総勢38名になるまさにスリランカ最後の晩餐会が始まった。会場はレストランの屋外の特設テーブルでウナギの寝床のような作りになり話が奥まで届かない。 しかしRSSLの幹部とこれからの計画について多くのアドバイスを得たことは有意義であった。何より今回からRSSLメンバーになった我々チームは今後ますます関係を強化し新しいアマチュア無線の文化を築いていけるのではないかと感じた。 食事途中雨にたたられ、テーブルを移動して一時ざわざわしたが楽しいひとときだった。 ロブスター3sが胃袋に消えた 観光チームを送り出し無線チームは6人のファミリー所帯になった。私の留守中ロブスター事件が起こった。早い話がスリランカのホテル事情を反映している事件だが、要するに言葉の壁を巧みに使って本来含まれているはずの食事がないように見せて高額の料理やワインを勧めるという手口で一番の被害者は日本人だ。 レストランのマネージャーはこれが収入のベースで、ツアーのビュッヘ料理では残業手当にもならないシステムがそうさせるらしい。 この日まんまと乗せられた無線チーム6人は言葉巧みにロブスターを勧められたそうだ。合意すると別にテーブルを仕立て特別席で3kgのロブスターが出された。そこまでなら良いが今度はロブスターにはワインが似合うとのことで、次にはどうせ飲むなら一番高いのを飲もうとなったようだ。まあ私に怒られれば払えばいいや・・と始めたら結局イケル・・でワインは3本も平らげた。
ここまで聞くと、どうもこいつら一休さんの話のようでひょっとして判ってやってるのではないかと思うようになった。スリランカのホテルより悪知恵が働くのはひょっとして身内だったのか・・・ そんな訳でスリランカでは飲み始め酔いがまわりご機嫌になったころ一気に早口の英語でワインが無くなったのでどうか?ビールを追加しようかなどまくし立ててくる。OK!OK!がご機嫌の日本人の返事だから最後にはテーブルには手をつけていないビールやワインがそのまま残ってしまう。ドイツ人などは絶対に引っかからないから日本人が最高のお客様になるが、決して尊敬はされていない。 客を惑わしてはいけない ロブスター事件は実に面白いスリランカのホテル事情を表している。実際は食事など当然最初から3食確実についているが、これはこのホテルだけでなく高級ホテルでも料理以外にも勝手に請求してくることが頻発しているから気をつけないといけない。大抵の日本人は根負けして支払うことが多いからこれらを誘発している要因になっていることもある。 今後はこんなつまらないトラブルに嫌気をさしてスリランカを避ける日本人が増えてくる事は間違いない。決して詫びることができない悲しいスリランカ人が近い将来支払わねばならない負の代償になるだろう。アジアの国々でも同じようなことで観光信用をなくした事例は多くある。 最後のバトル、正義が弱者に 帰国直前、嫌な思い出になるが支払い時点でスリランカのホテル特有のトラブルがあった。前にも話したように、このホテルは昼食がないと無線チームに誤解させ特別メニューをオーダーさせる営業方針だ。伝票には確かにサインもあるので支払わねばならないがこの説明方法には問題が残る。 宮本さんの怒りが爆発したのもこのホテルのやり方で、極めつけは支払う必要のない2万ルピーもの請求を意図的かどうか別として請求してきたことだ。 昨年以来スリランカのホテルの異常な行動に警戒心も高くなっており、一つ一つ明細を見て分かったものだがこれらを指摘しても、悪びれる様子もなく詫びることもなくただ薄ら笑いを浮かべ言い訳で繕うだけである。 これは観光チームのアヌラーダプラでも架空請求があったようだが、大抵の日本人は言葉の壁が障害となり根負けして支払っているのではないかと思える。 このホテルでの巧妙な請求スタイルはどうも偶然ではなさそうだが、ヨーロッパ人には笑みをたたえ日本人にこのようなことをすることを毎年経験すればこれが単なる誤りや偶然の産物でないことがわかる。 日本人のテレというコンプレックス その昔ニュヨークで流行ったが日本人観光客にお釣りを渡さないショップがあった。フィルム1本に平気で100ドル札を出す感覚もさることながら、マシンガンのような英語でまくし立てられれば、てれ笑いをしながらそのまま立ち去る日本人が多いことから味を占めた手口だった。 私の友人など釣りを出さない店員とやり合って撃たれそうになり逃げ出した者がいるが、日本では細かいことにこだわるのになぜか外国ではおおらかになるようだ。 早晩スリランカのホテル業も頭を打つ時代が来るだろうが、そのターゲットが日本人ばかりであるのは情けない。 怒りを表してもホテル側のマネージャーはひたすら薄ら笑いを繰り返す経験をすれば、最後には爆弾を投げるしか決着がつかないのことを一番知っているのがスリランカ人ではないかと思い直した。 金で解決するなら安いものだと考える日本人はスリランカにとってありがたいけど騙しやすい観光客ナンバーワンの不動の座にいるに違いない。 深夜のフライト
空港への出発は9時半に決めた。RSSLメンバーを送り出して最後の荷物を確認して空港に向かった。荷物を下ろすスペースがないくらい通路はごった返している。カートで身動きがとれない。 空港の警備は比較的緩やかだが初めてのメンバーには厳しく見えるかもしれない。搭乗時間はすでに25日を迎えSQ401便はシンガポールへ向かった。 行きと比べ帰りの便はシンガポールでの待ち時間も短くすぐに関空行きSQ984便に乗り換えた。午後3時45分には関空に着く予定だ。 関空からそのまま東京へ メンバーの心は懐かしの我が家だろうが私はこの日18時から東京で開かれる理事会に出席する為にそのままJAL便で飛ばねばならない。フライトまでに1時間以上はあるが場合によっては荷物もとらず国内線に直行となる。ナビの追い風情報を見ながらこれなら定刻より早いかな!向かい風ではちょっと遅れるかな・・などを予想していた。
到着は3時半だった。これならスーツケースも持ち出せる・・みんなに挨拶もできる。通関を済ませ出迎えの家族とみんなが談笑している間に国内線に向かい座席を確定してまた到着ロビーに戻った。あとは10分前までに乗り込めばいい・・ 何とか皆さんにお礼とお疲れ様が言えほっとした思いで東京に向かった。 反省とお礼と・・・ 旅の反省は多くあるが、我々が経験したスリランカの旅で起こるストレスは日本人添乗員が同行するツアーをやらない限り解決しない。いや、いかに優秀な添乗員であっても避けられない事態に遭遇するのがスリランカでもある。 余談になるが日本の旅行会社からもスリランカに限らずインドや周辺諸国の添乗の苦労を聞くこともあるが、スリランカは知りすぎれば知るほど難解な国であり続けるだろう。 とにかく毎回ながら秘書役で走り回せてしまう阪本光さんを始め、紙面に登場しなかった多くの参加者皆様に心からお礼を申し上げ旅のレポートを終えることにする。 (2004.10神戸にて) お礼:ご紹介した写真は一部今回ご一緒させて頂いた三浦さん、吉川さんからご提供いただきました。紙面を借りてお礼申し上げます。 |