津波被災地スリランカへの義援金を届ける旅レポート

2005年2月2日から2月7日

 一瞬に1800人の命を奪った列車は今線路に戻されていますが、列車はこの場所よりかなり遠くまで流され、しかもバラバラに横たわっていたものを避難所があるこの村に仮設置されたものです。
 連日多くの現地の人たちが見学に来ていますが、避難所を訪ねる人は少ないもののこの場所が忌まわしいながら名所となっているのは事実です。
 鉄道の普及が急ピッチで進む中、線路上の負の遺産はこの後どのような扱いを受けるか興味を覚えます。




 アマチュア無線が人と人をつなぐOS的な役割を果たしながら発展してきたのは、その限りない魅力にとりつかれた人たちが築いた斬新な文化を形作ってきたからに他なりません。
 ところが近年アマチュア無線が真の姿でないいびつな印象を与え、名前だけを残しすっかり社会の片隅に追いやられた感があります。アマチュア無線を一つの定義で表すことが出来なくなってきた時代の中でそれでもアマチュア無線の真髄を追い続ける旅の記録です。
  

 またスリランカ・・といわれても今回のスリランカ訪問には特別な事情がありました。2004年12月26日クリスマス休暇でにぎわっていたアジアの観光地や国々を震撼させたスマトラ沖地震は津波という迷惑な特大付録をつけ周辺各国に甚大な被害を与えました。
 自然の偉大さと恐ろしさを嫌というほど味わう出来事でしたが何と言っても私にとって気になるのが5回訪問しているスリランカのことです。アマチュア無線を通じ現地との交流を目的とした旅は既に4回110人を越え、39名が現地の免許を受け18人がRSSL会員となり私と同じ思いの仲間が数多くいます。

 どうして今回スリランカに行くことになったかをお話する前に経緯をお話しましたが、これは誤解を与えないために事実を伝えたものですが興味があればご覧ください。

 スリランカに津波が襲ったのは12月26時朝の9時40分頃だったそうです。テレビニュースに手を止め情報を聞き漏らさないように注意を払っていました。片側情報ですがどうも尋常でない事態であることが容易に理解できました。そこでスリランカのアマチュア無線連盟RSSLの顧問4S7EAアーネストさんにメールを入れました。実は電話も試みましたが不安定でした。そこでインターネットを使ってメールを送ったところすぐに返事が来ました。ちょうど10年前の阪神淡路大震災の日と似ていました。電話がダウンしても普及の前段階であったインターネットはすぐに神戸の状況を送り出しました。スリランカでも例外なくさすが頼りがいがありe-mailによってRSSL会員150人の安否が確認できました。

 現地の情報をつなぎあわせると10年前の神戸と同じで比較的山の手は被害が無くスリランカではアマチュア無線家は海岸線から離れた場所に住む人が多いようで人的被害がなかったということです。
 アーネストさんから、津波による死者はこれからもっと増え6000人を越えるだろう、と日本のテレビで流していた1500という数字をはるかに越える数を指摘してきました。それが4万人を越えたのですからこれも10年前の神戸の状況と似ていました。阪神大震災でも最初のニュースは死者はたった2人だったのです。16秒間に3000人以上の命が消えたのですが昼前までの死者はこの程度しか掌握出来なかったのですから初期情報を鵜呑みにしてはいけないという教訓がここにもありました。

 安否確認ができアーネストさんに私に何が出来るかを聞いてみました。スリランカでは今の時点で非常通信は短波が最大の貢献をしている。しかしネットワークが出来ている2mレピータ用のハンディトランシーバー4台を至急手に入れたいというリクエストがありました。
 南部の被災地ですぐに立ち上がった無線局は、我々が所有する現地のIC−7400とIC−756を使った非常無線局だったという第一報が届いています。あわてて送る機材より日頃備えている無線機がすぐに役立という教訓も10年前の経験と同じでした。
 自慢ではありませんがスリランカで外国人がアマチュア無線を運用するノウハウを一番持っているのは我々だと思います。日本のアマチュア事情では理解できないでしょうが、スリランカで電波を使用するには最終的に軍の許可が必要です。したがって無線機を何台買っても許可が無くては使えないのです。かなり厳しい条件があります。仮に私が友人に無線機をプレゼントしても譲り渡した証明書、機器番号、仕様書などを届けなければならない国で、我々がRSSLに預けている無線機はすべて政府に登録済みの機器であったことがすぐに使えた理由です。

 早速4台のVHFトランシーバを確保することにしました。無線機は販売店から購入して送るということを試みましたが、スリランカ特有の事情で勝手に送っても税関を通りません。まず現地から要請文書が必要ですが、何より困ったのが海外仕様の機器が簡単に手に入らなかったのです。
 そこで何時もお世話になっているアイコム井上社長に電話を入れました。井上社長から「何か手伝いをしないといけないと思っていた・・その機器を送ってやろう!」と嬉しい返事が返ってきました。これも10年前、涙と鼻水を流しながら凍える神戸の町を走り続けた毎日もこんな暖かい思いやりが励みになっていたことを思い出しました。
 同時に年末27日夕刻から28日にかけて、東京のNGO団体がスリランカに飛び立つので情報が欲しいということで電話で現地情報などを提供しました。この時の一人とその後スリランカテレコム〈TRC−SL〉で偶然に出会うとは思いもよりませんでした。
とにしました。

 29日になって津波死者の数は倍々ゲームのような膨大な数字となってニュースは伝えています。
 そもそも人がなぜ「見舞い」という行為をするかを考えた時、何が人の心に一番近いかを自分と重ね合わせれば必然的に何をなすべきか判ります。私の思いはどうしても阪神大震災で経験したことが根底に焼きついており、教訓の日々が忘れられないからです。それは人という生き物の本質を見る経験したり隠そうとしても無意識的な人間性をさらけだしてしまう、ごまかしのない時間過ごしたからです。
 とにかく見舞いという気持ちを「お金」に置き換えて実行することも大切でしょうが、やはり顔を見て言葉を添えながら気持ちを伝えることはさらに価値のあることだと思います。スリランカ行きを決意したのも実はこのような思いからでした。
 
 阪神大震災の際、私が所属していたロータリークラブに突然台湾の姉妹クラブから3人のメンバーがやってきました。予告もなくまだ神戸の町がくすぶっている時のことです。すぐに用意できたのはこれだけだと300万円の義援金を持参して宿の保証すらない被災地神戸にやってきたことに正直驚きました。それよりその心に敬服しました。
 こんな真似はできませんが、何もしないよりせめて一声掛けるほうが良い、声だけより文字を添えるのはもっと良い、思いをこめた文字に心ばかりの品物をつけるのも良い、それより早く訪ねて行って抱き合いことはもっと価値がある・・そんな思いがあったのは確かでした。

 JARLが始めた募金に先駆けた我々の活動でしたが、梯子を外されたような不愉快な事が続きましたがそれでも少ないながらある程度の額になりつつありました。そこで、この志しに今回の津波被害で一番役立ったというHFトランシーバーを加え現地に届けてみようと準備を始めました。
 さていざとなると誰が行くかですが、ここで白羽の矢が立ったのは2003年突然スリランカに飛びたたなくてはならなくなったとき同行してくれた田中さんでした。
 おい、スリランカに行こう!!「えっ・・・!」この会話で事が足りるのはアウンの呼吸というか、今まで多くの思いを共有しているいわば同士の気持ちからだと思います。
 早い方が良いが1月中はお互い月末の処理があるので2月に入ってすぐの予定を組みました。一番安い運賃を提示してくれるシンガポール航空はお気に入りで今回もこの便を選ぶことにして日程調整の結果2月2日出発7日帰国のスケジュールを組みました。
 あれやこれやと準備を始めるとやはり持参する機材の関係でもう一人同行して欲しい状況になりました。1月23日伊丹市で兵庫と大阪の合同行事がありおなじみの顔が一同に集まりました。ここでスリランカぺディ3回参加の大先輩宮川さんに声をかけてみました。まんざらでもなさそうでしたので、口説き上手の田中さんに「宮川さんが行ってくれそうだからもう一押し・・」のシグナルを送り見事にOKをとりました。

 航空券の手配を始めてぎょっとしたのは、原油高騰で航空会社はフューエルチャージという燃料負担を利用者に課する事が決まり各社はそれぞれ実施することになったニュースです。
 シンガポール航空は2月からスリランカ便に80米ドル加算することになったと言う連絡がありました。これを避けるために1月中に全額を支払いましたが、電車の切符代に電気代の値上がり分を別にとられるようで今後の旅の影響が気になります。
 航空券の予約が完了した時点で、宮川さんが突然腰痛を訴え荷物持ちどころか同行が危ぶまれる事態が起こり心配しましたが出発まで静養してもらう事にしました。毎日電話で様態を尋ねるとこれなら大丈夫という元気な返事があり予定通り決行することになりました。

2月2日水曜日
 前日この冬一番の寒気団が日本列島を襲う・・の天気予報を気にかけながら当日を迎えました。天気は晴れこの日休みの息子の運転で家内とともに関空に向かいました。スーツケースは完全に重量オーバーのため事前に航空会社から20キロのおまけをもらいました。

 約束の時間に田中、宮川両氏と合流し早速SQ985便の搭乗手続きにはいりました。今回のシンガポール便はかなり空席が目立ちます。おそらく50パーセント程度の乗客だと思われます。
 機材はB777で座席はリクエスト自由です。田中さんがYクラスの一番前を希望したのは離発着時にSQの妙齢の女性パーサー達と対面できると淡い期待を抱いていたようですが、ジャンボ機ではなくシンガポールまでずっと壁とにらめっこでこの夢ははかなく消えました。
 
 シンガポールとの時差はマイナス1時間、大阪から6時間のフライトでチャンギ空港に着きます。25分遅れの離陸でシンガポールには現地時間18時46分に到着しました。

 コロンボ便への乗り換えまで待ち時間5時間ですがトイレより先に喫煙所に駆け込むのが田中さんの恒例です。この空港の喫煙所は外にありタバコの煙は外気と直結ですから非常に健康的です。ひまわりの花に囲まれ飛び立つ飛行機を見ながらタバコを吸うのですから肩身の狭い思いをせずに喫煙者には人気の場所です。タバコ嫌いでも全く気にならない花壇に囲まれた環境でさすがよく考えられた構造です。

 その後向かったのはインターネットカウンターです。空港内の各所にLAN接続が可能なテーブルが用意されています。パソコンさえ持参すればここでは思い切り遊べます。もちろん無料で時間制限もありません。
 私は今回のスリランカ行きのために清水の舞台から飛び降りたつもりでノートパソコンを買い込みました。海外初使用がチャンギ空港でした。
 宮川さんのノートパソコンは、スカイプなどインターネット電話ソフトが装備されエコーリンクに接続でき、にわか仕立ての私のノートとは比べものにならないくらい遊び道具満載です。私はここでspamメールの中から大事なメールを拾い出しにわか返事でお茶をにごし面白グッズの宮川マシンを囲みました。

 
 E−QSOをやろう、電話をかけよう・・インターネットの相手を呼び出すのに契約したばかりの田中さんの携帯電話を使うのが可笑しいのですが大真面目です。それでも仕事で持参したはずの電話をシンガポールで日本のアマチュア無線仲間を呼び出すことに使う価値は十分にありました。
 迷惑を被るのが日本にいる仲間の白原さんです。いつでもどこでも我々のサポート役として手伝ってくれる白原さんですが迷惑がらずに結構楽しんでサーバ立ち上げの協力をしてくれました。
 チャンギ空港は遊び場としてもまさに良い条件です。もう少しパソコンが普及すればおそらく行列のできる場所になるか有料になるのではないかと思います。

 シンガポール航空のチケットには空港内で使える10シンガポールドルの金券がついています。3人で30ドルあるので深夜のコロンボに着くまでに一休みしようと言うことになりました。しばし日本食ともお別れと言うことで寿司屋に行くことにしました。といっても回転寿司ですが日本にないメニューが回っています。

 ビールを飲みながらコロンボ便に乗り換えたらまたディナーが出るなあ・・の話に思わず箸が止まるという繰り返しでしたが話題は尽きませんでした。
 チャンギ空港は広く映画館もあり設備を比べると関空など足下にも及ばないくらいのキャパがありアジアのハブ空港を自認しているようです。日本では24時間空港の運営が難しいかも知れませんが完全に敗北であることが判ります。

 23時40分発SQ402便コロンボ行きはこれまたゆったり便です。基本的に日本からの団体観光客が居ないのですから当然かも知れませんが、これから約3時間は深夜のフライトです。タイ航空を使うと今回の震源地を見下ろしながら飛行しますが、赤道に近いシンガポールからは少し北に進路を取りインド洋に出ます。

 シンガポール航空の機内サービスは世界の航空会社の中でも最上級だと思います。関空を出てすぐに出る機内食は早朝家を出た空腹の客には絶妙のタイミングです。味も合格点で田中さんの白ワインのオーダーもハイペースのようです。それに比べ宮川さんと私は酒量も少なく標準的な優良客でしょうか。

 機内ではオンデマインドの映画が60プログラムほど用意されていて隣を覗き込むと田中さん達は釣りバカシリーズ15作を見ていました。シンガポールがベースだけに香港映画の広東語、インド映画、ハリウッド映画が揃っていてすべてを見るには地球を何度も回らなければならないほどです。

 SQ402便は現地時間0時37分、少し遅れてコロンボ空港に着きました。時刻はすでに2月3日になり日本では深い眠りにつく3時37分ですからようやく15時間の空の旅を終えたことになります。
 空港は昨年9月から僅かの間にまた綺麗に改装されていました。飛行機を降りたとたん免税店があり異様な感じがします。改装前も同じでしたが到着ロビーに免税ショップを開いて果たして客は買い物をする気になれるのか?疲れた旅人なら真っ先に出口に向かうはずなのに・・このあたりがどうも理解ができません。
 バッゲッジラインに向かいましたがいくら待っても荷物が出てきません。空港内を見渡しやっともう一つレーンがあることが判りました。改装した空港は増築のせいでエスカレータをぐるりと回った反対側にもう一つレーンができそこがSQ便の荷物レーンでした。
 スーツケースや機材は問題なく通関を終え取り急ぎ現地通貨の両替を済ませて場外に向かい5ヶ月ぶりにお馴染みガイドのアリさんと合流しコロンボ市内のTAJ・SAMUDRAホテルに向かいました。


2月3日木曜日
 TAJホテルは2001年最初のスリランカでお世話になったホテルです。それ以後も待ち合わせや食事に使いお馴染みの場所で古巣に帰ったような感じがしました。部屋は2階の177号室で廊下伝いにインド洋の海が広がっています。チェックイン後眠い目をこすりながら荷物の整理とメールチェックを始めシンガポールで返事ができなかったメールを送る作業に入りましたがダイヤルアップのために一度切断してから再度つなぐと言う繰り返しをしなければなりません。

 何しろスリランカのホテルで電話をかけると宿泊費より高額になることもあり要注意です。今回はチェックアウトの際1万ルピーの請求を受けました。これはスリランカ人の給与の大半を占める金額で又か、という思いです。 眠りについたのは明け方の5時になってしまいましたが悲しいことに7時前に目が覚めてしまいました。明4日は独立記念日でスリランカ中がお休みになります。きょう中に政府関係機関との用事はすべて終えなければなりません。そんな思いが眠りを妨げたのかわかりませんが、とにかく気分転換に道路を隔てた海に向かいました。津波に関する情報をこの目で確かめたいという思いがあり斜め向かいにあるゴールフェイスホテルの方角に向かいました。今回はデジカメだけではなくビデオカメラを持参したのはこのためです。

 すでに朝のラッシュを迎え車のクラクションと町の騒音に包まれています。眠気などすっかり吹き飛びました。スリランカはイギリスの植民地であったためよほど大きな交差点以外は信号機のないロータリーが多くあります。日本では馴染みではありませが上手く使えば信号機で片方を止める交通整理より円滑な通行が可能です。ただ歩行者には不便があり絶え間ない車の間隙をぬって向こう側に渡りきるには勇気が要ります。朝は警察官が交通整理をしているので比較的安心ですが日本のように悠長に横断歩道を歩く事は許されません。
 
 津波がこの海岸にどのくらいの高さで届いたかが一番気がかりでした。いつも市民がタコあげをしている公園を通るとジョギングをしている人や、地面でおもちゃを売る人などがいましたが平日なので公園は人が少なく静かでした。朝のコロンボの表情におもしろさを感じます。
 声をかけてくるのはバジャージという3輪タクシーの運転手で、1時間の市内遊覧に行かないか・安くするから・とか日本人か?など積極的です。
 それより津波はどのくらいの高さだったのか?と聞くと公園のすぐ下の歩道まできたと言う話でした。海辺に近づいて堤防を覗き込むとそれでも高さは2メートル以上あって延々と続く防波堤が見事に津波を止めたことがわかりました。何度も歩いた場所ですが覗き込んでその高さに初めて気がつきましたが、人の記憶は意外と曖昧だということを感じました。スリランカの西海岸にあたるコロンボ市内の被害を最小限に防いだのはこの防波堤であったようです。


 そして目的のゴールフェイスホテルの中に入りました。ガーデンのテラスもそのままで、シースプレイという、しぶきで眼鏡やカメラのレンズが曇る名物レストランも健在です。おはようと従業員に挨拶をしてうろうろしているとマネージャーのような男性に声をかけられました。
 ここに泊まっているの?いやお向かいのTAJだ、でもここは何度も利用しているよ・・!そんな会話のあと津波は日本語だそうだね?と聞いてきました。そうだと答えると感心したように日本ではそんなたくさん津波が来るのか?と聞いてきました。期待を裏切ってはいけないと思いましたが嘘はつけず、私は津波に遭ったことがないと言うと不思議そうな顔をしていました。日本では津波がいつも来て、それでも生き残る我々を素晴らしいと評価してくれたのかも知れません。

 コロンボ市内の津波被害は護岸工事が進み大きな被害はありません。しかし空港近くのニゴンボでは海に近い市場などは水没したようですが、昨年の町には今回は行くことができませんでした。
 朝食のためにホテルに戻ろうとしたら前から田中さんと宮川さんが歩いてきました。意外と早起きにびっくりしましたが、その場ですぐ引き返し朝食をとることにしました。朝食はバイキング形式で色々選べます。ヨーロッパ人が多いホテルですからスリランカ料理が苦手な田中さんでも全く問題ありません。

 出発は10時半と決めてまずアンドリュース旅行会社に向かいました。そこで役員のティラクさんと会い懸案事項を調整しました。何しろ我々の旅の窓口でもあり過去の困ったスリランカでの出来事にも協力をしてもらっている会社です。
 昼はマヘン社長と食事をして2時にTRC−SLに向かい6時に後スリランカ観光局に行きその後はRSSL会長たちと会談をして義援金を渡すかなりハードな予定です。

 ガイドのアリさんの迎えが30分遅れになりましたが、それよりも気になったのが我々の迎えが昨晩の空港と同じ日野のエンジンとトヨタのボディと言う29人乗りのマイクロバスです。私が頼んだのはワンボックスの小型車ですからこんなマイクロバスの使用料をまともに請求されるのは困ります。
 聞いてみると、旅行会社の車は津波の取材陣やスタッフの貸切ですべて出払っていて残っているのはこれしかないとの事でした。運ぶ荷物もなく我々にとって大きすぎるバスですが新しいのとエアコンの調子も良いので料金が同じならカマヘンカマヘンという事になります。
 
 旅行会社でまずしなければならなかったことは、最初何も判らないスリランカへ誘いを貰いその為不利益を被った過去のしがらみを消す手続きをしました。 メンバーの無線免許状の住所もRSSLに変更したり書類作成にかなりの時間を費やしました。
 マヘン社長との昼食はスポーツクラブの中にあるレストランでコテコテのスリランカ料理です。とにかく2時にTRC−SLに行かねばなりません。スリランカ時間というのがあるかどうかは知りませんがスケジュールはいつも押し気味になってしまいます。

 お馴染みのTRC−SLに着いたのは2時を少し回っていました。TRC−SLを詳しく言うと
The Telecommunications Regulatory Commission of Sri Lanka を略した政府機関でスリランカにおける通信や無線免許を一挙に扱う役所です。我々の免許は当然この役所の許可を得て過去に39名が免許を受けています。
 無線免許は毎年一括して申請していますが今回は津波被害の見舞いと義援金を届けに行くのが目的でしたがトップとの面談の前にそれぞれが所持する免許を更新することになっていました。これは毎年の恒例です。

 政権が変わる度に幹部がごっそり入れ替わるスリランカですが、今回私がお会いしたゼネラルは3人目で、非常に若返り精悍な感じのする、ARUNA AMARASEKERAさんで大変好意的な印象を受け、話のわかる人だと感じました。

 このゼネラルの配慮もあり今回特別に滞在中の免許を受け無事更新手続きが順調に進みましたが免許発給には1時間半ほどかかるとのことでそのままロビーで待機することにしました。道路は独立記念日前日で相当大きな交通渋滞で外出をあきらめたからです。
 
 免許の許可がおりガイドに申請料納付を依頼し受付前で待っていると青い帽子をかぶった一人の日本人らしき男性が玄関を出るところでした、田中さんに声をかけるようお願いし呼び止めました。
 その男性から貰った名刺を見ると年末にスリランカ情報を送ったNGO団体の堤本さんであることが判りました。先方から私に電話で話をしましたねと声があり実に偶然の出会いでした。
 
 しばらくこのNGO団体のスリランカでの活動を聞きました。トランシーバを100台、ミニFM放送局を2局設置する許可がこの日許可されたと喜んでいました。なぜこんなに時間が掛かったのかというと軍の許可が出なかったようです。これは別ルートから聞いていた情報ですが、政権が不安定なスリランカでは無線機の取り扱いに一番神経を使っているのです。
 津波から1ヶ月以上経ってその影響がないと判断したためようやく許可が下りたようですが、スリランカでの非常通信はすでに終わり今は住宅建設や鉄道の復旧が最優先課題です。
 被災後40日たった100台のトランシーバの使い道にRSSLも興味を抱いている様子でした。このトランシーバはアマチュア無線用の機器ですが使う周波数はアマチュアバンドではなくスポット3波が割り当てられており余計に興味のある人たちは気になったのではないかと思います。
 阪神大震災の1万人の非常通信を含めたボランティア通信は45日で完全に終えたことを観ると無線機の持ち込みに40日という多くの時間を消費しなければならないことはあまりにも効率が悪い気がします。
 
 話題の中で我々が今夜RSSL役員に会うという話をしたところアンテナポールを探しているのでアーネストさんと接触したいという希望がありました。田中さんがポールなら我々が現地で保管しているものを貸そうと申し出ましたが強度や期間の関係で断念しました。そこで名刺を預かり翌日アーネストさんと会うためのサポート役をする約束をしました。
 ところが帰国してからこの時のシーンが、「韓国人らしい人物に声をかけたら無線をやりにスリランカに来ている非常識な日本人だった・・・」などと憤慨するような書き込みがされており相当落胆しました。
 この出所がどこでであるか知りませんが、その後さらに面白可笑しく発展し、東京からの電話では「遺体がゴロゴロしているスリランカに無線をやりに行った非常識な日本人3人はJARLの関西地方本部長たちで、これを許可したJARL原会長はとんでもない・・」と言われているよ・・とご丁寧なお知らせがありました。
 アマチュア無線はこの類の話が多くいちいち反応していたらきりがありません。私は自分で確かめたものしか論陣を張らないのでここでも「失礼ながら・・言われているんじゃなくて言ってるのはお前だろう・・」と内心思うのですが、ただこの話で一つ気に入らないのは今回の募金で我々に理不尽な行為をした抗議相手のJARL会長と同じ扱いなどしないでくれ!だけは言っておきたいと思っています。
 私はJARL会長の許可など得ていませんし貰おうとも思っていないのですからこのような表現は迷惑だと重ねて訴えます。 
 とにかく黙って聞いていると実にアマチュア無線家は面白い人が多く集まったものだと感心します。それにしても誰かが正確な情報を送らず何かの意図をもってやっていると思いますが、私が一つ確認できたこのご本人が書かれたJANETのMLでは、もう少しこの時の様子を正確に伝える必要を感じます。私は協力はしましたが迷惑などかけたことがありません。
 戦術は異なりますがどこかに同じ精神を共有するという思いだけが原点でしたが、行き違いの原因探しよりお互い崇高な理念で動いているとしたらどこかで修復可能でしょう。
 TRCでの出会いは日本の政治レベルのボランティア団体の存在を初めて垣間見た経験でしたが、詳細を聞き健闘を祝いました。

 観光局に向かうことにしました。少し時間があったので政府紅茶局に立ち寄り、そしてもう一つ国営宝石公舎に寄り短いながら今回最初で最後の買い物をしました。
 スリランカ観光局チェアマンは海外に出張とのことでディレクターのS.KALAISELVAMさん面談しました。いつも我々がお世話になっている事もあり表敬訪問とアマチュア無線への協力依頼をしましたが、ディレクターからこのビルの屋上にアンテナを建て無線局を作ってはどうかの提案があり驚きました。願ってもない事でしたがこれはすぐに実現できることでもなく今後の課題としました。
 ディレクターが一番気がかりなのは当然ながらスリランカの今後の観光事業で元のように観光立国のスリランカを一日も早く取り戻したいという思いがあるようでした。
 観光局を出たときはすっかりあたりは暗くなっていました。7時半からRSSLビクター会長、アーネスト顧問、そして秘書のクサルさんと会い今回の義援金と無線機を贈るセレモニーです。会場はTAJホテルの中華レストランになりました。

 話題は津波発生後からRSSLがどう行動したかの話になりましたがやはり大変な事態の中でよくやっと言う印象を強く受けました。この時の英文レポートは是非紹介したいと思っています。
 食事を終えて今回の目的である義援金とHFトランシーバ3台ならびに電源の贈呈式を行いました。日本を出てから35時間、睡眠時間2時間の長い一日が終わりました。


2月4日金曜日
 義援金と無線機と何よりも私達の気持ちを届けることができ一番の目的を果たすことが出来ました。日本にいる協力いただいた皆さんにも良い報告ができるという思いがあり、すがすがしい朝を迎えました。
 この日はスリランカの独立記念日です。国中が式典ムードで盛大なお祭りが行われすべてはお休みになります。実は当初この日に政府関係者との面談を希望していましたが、うかつなことにこれを知らなかったために予定が大きく狂ってしまいました。そのツケが前日のハードスケジュールになったのですがスリランカは不思議に我々に幸運をもたらせてくれました。
 
 出かける前はこの非常時に国中が休んでどうするのかと思っていましたが、式典は質素でパレードも中止し津波犠牲者の追悼式典を兼ねたものだそうです。翌日の新聞はこの模様を伝えています。

 今回の目的の一つに我々がお世話になった南の町がどうなっているのか、テレビでしか見たことがない実際の現場を仲間にも見てもらいたいという気持ちで日頃持参しないビデオカメラを手にしていました。
 きょうは、ゴールの町まで行ってその日のうちにコロンボに戻る行程を組みました。そして夜は4S7EA、4S7VK宅を訪ねる予定ですからかなり強行軍になります。
 それより朝早くコロンボ市内を出ないと大統領や軍の移動で市内の各所が通行止めになり出られなくなるとの話です。大統領がどこを通るか正確な情報は公開されていません。テロが横行する国ですからその朝突然この道を通る・・となるようで仕方なく式典の時間から引き算して安全圏の7時半を出発時間に決めました。

 日本を出る前スリランカではデング熱、マラリアなど感染症が心配されるのでその準備をするように言われていました。これは二人にも伝えていましたが、とにかく私の友人から抗生物質をもらい人数分持参していました。外科医が処方する薬ですが、いざというときに役に立つと考えたからです。
 コロンボは平穏で何事も無かったような町の営みですが、コロンボを出て南の黄金海岸あたりにさしかかると明らかに津波が押し寄せたと判る町々に出会いました。

 私の説明では上手く表現できないかもしれませんが、実は南に行くほどすさまじい被害・・というのが必ずしもそうではないことに驚きました。
 海沿いの家がすべて無くなった所や海から道路を隔てた陸地までが全部破壊された町、そしてしばらく進むと今度は何事も無く両側で市場が営業している町など一言では説明のつかないことに多く遭遇しました。
 聞いてみると津波の被害は単純に波の高さではなく海の形状に支配されているということがわかりました。つまり遠浅の海岸が続く海の町と、急に深くなる海の町ではその被害が大きく異なり自然は正直に反応していたことがわかります。

 私の取材メモはいつもはデジカメだけですが今回はビデオカメラを使いました。現地シンハラ語の難しい発音の記録はビデオの映像と一緒に記録するのが一番ですから町の名前はその都度ガイドのアリさんに聞いて記録していくというスタイルです。
 日本のテレビではスリランカのショッキングな映像が数多く流れました。その中の一つに列車が流されて1800人が亡くなった現場にも立ち寄りました。

 遺体の収容を終え、列車は避難所の村にある線路に戻され観光場所になっています。観光地という言い方は良くないかもしれませんがほとんどのスリランカ人は非難所を素通りにして家族づれで列車見学に来ています。この落差は驚きでしたが10年前の神戸にも多くの被災地見学コースがいつの間にかできていました。バスのカーテンの間からそっと覗く人や堂々とカメラを手に歩く観光を兼ねたボランティと称する人を見かけました。
 私の手元には10年前の写真がありません。写っているのは全部誰かの手によって撮影されたものですがその理由は当時どうしてもカメラを持つ気持ちにはなれなかったからです。カメラのレンズを神戸のすべてに向ける事に罪悪感を覚え、手にできなかったのです。
 スリランカでも同じ思いがありこの地に立ち、カメラを向けている自分に対し快く思わないスリランカ人も多いのではないかと思い避難所の中にカメラを向けませんでした。

 オランダが作った要塞の町ゴールは悲惨でした。しかし強固に固められた要塞の内部は全く無傷と言って良いほどでオランダが築きイギリスが拡張した要塞内部は平穏な町がそのままありました。

 比較すると要塞の外と内では全く異なる様相で、港と直結する海軍の施設はボロボロで応急補修のトタン塀が続き、内部の建物も屋根が吹き飛びひどい状態です。しかし要塞内部にある陸軍の施設は無傷というこれまた別世界のような光景が広がっていました。


 海外からの支援も色々なパターンがあるようです。色とりどりのテントは正に各国を象徴するオセロゲームのようです。陣取り合戦のように見えるのですが、特に目立つのは中国からのものでブルーに白字の簡体文字が中国を無言で主張しています。
 スマートなのは国際ロータリーのテントでイギリスとアメリカから援助されたようで3部屋があり豪華な感じがします。被災地に似合わない夏のキャンプ用の大型テントも数多くありこれはどこか異様で灰色の被災地には似合いません。これがどこからの支援か確認できませんでした。
 必死に探しましたが日本のテントは見あたらず、それらしいものを見つけたのは兵舎の様に続く国防色のテント村で、阪神大震災の記憶と重ねてこれが日本からのものではないかと感じました。
 いま日本でスリランカを支援しようと言う募金が多くありますが、スリランカ政府は被災者に届かない募金活動が世界中で横行していることに不快感を抱いています。
 日本でもスリランカにテントを送ろうとか毛布を送ろうとかを唱えているグループがありますが、日中は30度を遙かに超えるスリランカではテント生活はできません。しかも毛布にくるまったスリランカ人を見たこともありません。


 この津波で政府は海岸100メートル以内の住居建設を禁止し家を建てる事ができなくなりました。今必要なのは毛布でもテントでもなく建設資材と重機と人員でしょう。
 津波被災者の為にを唱えながら暴力団の資金源となるような募金活動が現実にあります。またこれを利用した不心得な人たちが任意に団体を名乗り巧妙に仕組まれた募金があります。私たちは注意しなければなりません。
 被災地の支援は時間とともに状況に適応するものでなくてはなりません。神戸でもある避難所に風邪薬がないと報道されるとギョッとするくらい風邪薬が届きました。この物資のアンバランスを調整したのが当時のアマチュア無線の生活支援通信でした。
 スリランカに於いても金銭面からみるとすでに支援は十分ではないかと思えます。日本政府も50億ドルの支援を約束しスリランカ政府の閣僚達はほとんど国内におらず世界中を飛び回って協力を依頼していました。世界はこれに十分応えています。
 いまスリランカに必要なものは、実際に復興につながる人手であり経験者によるノウハウ提供とメンタル的な支援ではないでしょうか・・これを実際に感じるにはやはり現地に行かねば判らないのではないかと思います。
 津波の難を逃れた建物で開設されているのはとにかく臨時の診療所や幼稚園です。白人の青年が子ども達を集めて遊んでいました。子ども達の笑い声を聞いていると支援の優先順位が金やモノではないのではないかと思えました。ひょっとしたら我々もモノ贈ることで私たちのつとめを果たしたと勘違いしてはいないか・・自問自答した時間でした。
 避難所ではようやく一斉に情報を送るための有線放送設備の工事中で、帰る頃には拡声器で祈りの詩を朗読するなど心の充足をはかる取り組みを観ることができました。

 我々のお気に入りライトハウスホテルに向かいました。ライトハウスホテルはゴールの町を代表する高級ホテルです。津波の被害を直接受けるインド洋に面しています。しかし名前の通り灯台と同じように崖の上に建設されていますから津波はテラス下の椰子の林を直撃しましたが建物まで破壊する事はありませんでした。玄関の螺旋階段は人の高さまで浸水したようですが従業員も宿泊客も全員無事だったようです。
 このホテルにわざわざ立ち寄ったのはメンバーの三浦さんが毎年このホテルのタッフの写真を撮り毎年プレゼントしているからです。預かった写真を手にスタッフを訪ね無事を祝いました。写真が喜ばれたのは言うまでもありません。

 ライトハウスホテルは現在満室です。世界中の報道陣やボランティアや多くの外国人で一杯でした。周辺のホテルは壊滅で一番稼いでいるのがこのホテルであるというのも予想しない出来事でした。

 テレビで何度も放送されたバスの屋根に残った男性が段々水につかっていくシーンをご記憶でしょう。あれはゴール駅前のバスターミナルの広場の映像です。あの画面はスリランカ人のテレビ局社員が家族から連絡を受けて半信半疑で現場に駆けつけた映像で自分の民生用のビデオカメラで撮影したものだそうです。もっと長いシーンがあの場面でカットされているのも理由があることが判ります。
 バスターミナルに続くゴール自慢のクリケット場はスタンドが流されてありません。津波はオランダ要塞と小さな丘の間をぬって突然町の中に押し寄せたものでここではダム決壊の様なすさまじさだったと思います。
 私が塩を買った国営マーケットや市場が並ぶ海沿いの町はゴーストタウンとなっていました。新しくできた法律ではは再開は不可能な状況です。
 ゴールに行くまでの道路脇に大きな船が並んでいる場所に度々出会いました。これらはみんな道路に打ち上げられた船を人海戦術で移動させ陸路を確保させたものです。ゴール港も例外なくこれより大きな船が陸に上がって異様な感じがします。

 TSUNAMIと言うものがあることを初めて知ったスリランカで、しかもこの津波が日本語であることをこれまた初めて知ったのがこの災害です。こんな不幸な言葉が日本語として世界で一番有名な単語になったことは、これを戒めにして日本も備えなければならないという教えだと感じました。
 今回訪問の南限はゴールでしたが、RSSLメンバーが最初に被災地に入ったルートは山越えです。海側は道路が寸断し軍でさえ容易に近づけなかったようです。そんな中、目的の町にはコロンボからヌワラエリア方面に入り直近の道路を下り被災地に入たそうですが、神戸でも六甲山を越え市内に入るのが一番有効な方法だったのと同じで良く理解できます。
 聞くところによると東海岸の町々はゴールどころでは無い地獄絵のような様相だそうですが報道されないのは人口密度が低いのと反政府支配組織LTTEの支配地に近いという政治的背景があるようです。本当の支援はこのあたりに必要なのかも知れません。短いレポートで言い尽くせない思いがありますがコロンボに帰る時間になってしまいました。

 今夜は約束通りまず4S7EAアーネストさん宅に集合です。その前に田中さんが昨年預かった4S7TZトレボアさんに修理品の無線機を届けるために立ち寄りました。スリランカでは無線機の入手や修理は不可能でほとんどはシンガポールルートでしかも誰かに頼まなければなりません。

 RSSL役員の無線機を確認してもFT−101という人もいて20年前の機器が健在です。これではメーカーは儲からないと思うくらい日本の無線機は故障知らずで優秀なようです。しかし、経年変化による劣化は避けられず修理が必要となる場合でも簡単ではないので我々にお鉢が回ってきます。たとえ30年前の無線機でも政府に届けた機器と言うことで買い換えをしないようです。
 今回もメーカーはこんなものがまだ使われているのかと目を丸くして驚き修理不能!!と伝えてきたそうですが、粘りの田中さん、そこを何とか・・で修理を終えたようですが費用を聞くとこれまた驚きの額で、それなら中古のものが十分買えるではないかと思いました。スリランカでのアマチュア無線機は考古学の復元作業に近い神業をもってしか対応できないかもしれません。

 アーネストさん宅に着きました。どういう訳か私だけアーネストさん宅に残り田中さんと宮川さんは4キロ離れたビクターさんの家にいくというシナリオができあがっており、今夜は別れ別れの行動になりました。年齢を合わせるなら宮川さんとアーネストさんがペアでしょうが、ここはアマチュアのよしみで二人であれやこれやと遊ぶことになりました。

 奥さん手作りの香辛料の効いたフィッシュボールは自慢料理です。食事の前につまみながら144Mhzのレピータ経由のエコーリンクなどで初めて田中さんや宮川さんと初交信することができました。日本にいる仲間も出てきてこのネットワークの面白さを発見した思いです。
 今回貰った免許は旅行期間中の限定されたものですがスリランカで初めてアマチュア無線の楽しさを味わった気がしました。
 世話役を引き受けると色々アクシデントがあって無線に没頭できないのが実情ですが、この日ばかりはご機嫌の時間になりました。我々を二つに分けたのはビクター会長の心使いであったこともあとで判りました。

 10時頃になって奥さん手作りの食事が届きアーネストさんと二人で頂くことにしました。スリランカの夕食は遅いようです。睡眠時間も十分ではなくかなり疲労が溜まっており温かいもてなしにもあまり食欲がありませんでした。
 それよりビクター邸の二人はまだ夢中で遊んでいるのかなと思いながら食事を済ませまた無線機の前に戻りました。バンドはまだにぎやかな交信が続いています。
 久しぶりにゆったりしたローカルラグチューでしたがそこはコロンボ市内、その隣町、英語、日本語、シンハラ語が飛び交う広範囲なものでアマチュア無線の醍醐味です。これから変わっていく無線スタイルの接点にいるような実感がありました。

 「おーーい!そろそろファイナルにしようよ・・」しばらくしてビクター会長のオンボロディーゼル車のエンジン音が聞こえ二人が戻ってきました。明日の予定をとにかく決め満足そうな二人とともにTAJホテルに戻ることになりました。

 ところで、この日ゴールに行く途中、無線に適した2件の海沿いのホテルを訪ねました。どちらもプライベートビーチを持つ高級ホテルです。
 ベルワナにあるEDENホテルは、60室足らずの小さなホテルですがペントハウスを持つ最上階の部屋は言うこと無しの環境ですが宿泊料も最高部類です。このホテルは2階まで津波が押し寄せそのとき10人のヨーロッパ観光客がプールサイドに居たそうですが無事に避難できたとの事です。
 プールは真っ黒な砂とごみで一杯になり、木も芝生も全部植え替えを終え、営業再開初日に施設を見学できたことになります。

 スポーツインストラクターのスタッフに話を聞きましたが、プールのすぐそばにある椰子の木に登ったのが助かった理由だと話していました。思わずその木を見上げましたがとても普通の人が出来ることでもなく津波の恐ろしさを改めて思い知らされました。
 このホテルは2月朝のNHKニュースで、観光客の安全を第一に取り組むスリランカのホテルということで紹介されましたが、このような被害を受けながら一人の犠牲者も出さなかったことが話題になったようです。

 もう一軒はベントタのSAMAN VILLAホテルです。ここは小高い崖の受けにありますがそう高い場所ではありません。ここがまさに海の形状が津波のエネルギーを減少させた遠浅の海岸で建物はもちろん大きな被害はなかったようです。このホテルからはおなじみのベントタにあるTAJ系列のホテルが一望でき部屋は完全なコテージタイプで独立しています。
 環境は抜群でほとんどがヨーロッパの客のようですが常連の日本人客もあるようですが、旅行会社にはこのホテルをあまり日本で紹介しないでくれと頼むようで、特別でないと満足しない日本人観光客の意識があるようです。 いずれにしても短い時間でしが、スリランカには隠れた素晴らしいホテルが南の海沿いに多くあり、その層の厚さは想像以上です。

 ただ、無傷に近いホテルの隣で破壊されたまま営業できないまま放置されたホテルもあり津波という災害の複雑さを教訓として残していると思います。







2月5日土曜日
 ホテルからきょうもアーネストさんの家に向かいました。今度は昨晩と逆に私がビクターさんの家に同行しました。今回の支援に対する礼状をタイピングするために自宅に戻ったビクター会長に付きそって行ったものです。

 ビクターさんの家は親子3世帯が大きな敷地内にそれぞれ一軒家を構え、広い敷地にログぺりや各バンドのアンテナが建てられています。アンテナがあまり目立たないは背の高い椰子の木に隠れているからです。庭は観葉植物の宝庫のような感じで日本でこの敷地を維持しようとすれば相当なものだと思います。
 

 事務処理中は無線室で自由に遊べとばかり部屋を開放してくれ、各バンドを聞いていました。その間ビクター邸には教会の牧師など来客がありこれではいつ書類ができるのか心配でしたが、あまりの暑さに庭に出て今度は甥に当たる5歳くらいの少年と飛行機を飛ばして遊んだり来客と話をしたりすることができました。
 敷地内で客待ちをしていたバジャージの運転手から面白い話を聞きました。スリランカ事情の別のレポートで紹介したい内容でした。
 ビクター会長の奥さんは日本語学校の英語教師です。さぞかし日本語が上手いだろうと聞くと笑いながら「コンニチワ」だけだと冗談を言っていましたが当然謙遜です。
 
 何度も確認しながらようやく出来上がった書類をもらい受け昼食に行くことにしました。私もコロンボは6回目、新しい日本料理店を開拓したくて日本大使館近くの店を紹介してもらいました。アーネストさんはその昔日本に行った時のテンプラがお気に入りでそれならと合わせようと全員が天ぷら定食を注文しました。

 まずはビールで乾杯です。届いた天ぷらは腰を抜かすくらいのてんこ盛りで、いったいどうやって食べるのという感じでしたが、思い通りさすが全部食べることができませんでした。
 日本料理でバケツ一杯のテンプラが出てきたら食べる気にはならない・・そんなイメージを抱いてしまいました。ただ面白いのは日本には無い材料が揚げられているので「これ何?」の遊びがあったことです。
 昼食を挟んでこの時間は津波に関する非常通信の詳細報告を聞く時間になりました。メモを取るよりビデオを回し多くの質問をしました。
 まず津波発生からどのくらいでRSSLは活動を開始したのか。どの地点でどの周波数で誰が運用したのか。どのくらいの期間運用したか。その通信内容はどんなものだったか。どの時点で非常通信を終える事になったか。など多くを聞くことができました。聞き取り調査では少なくともRSSLはかなり真剣に取り組み特に医薬品の調達や政府との連絡役に徹し大きな貢献があったことが判りました。ここでも我々の無線機が大活躍したことが話題になりました。昼食時間の大半はこの話に終始しました。

 その後もし無線センターを作るなら・・の仮説で、ビクター会長が薦める場所を見に行きました。警察署の向かい側で用心は良さそうですが日本では見かけなくなったどぶ川の臭いと共存する場所で、田中さんは渋い表情でしたがここも使いようによれば結構いいのかも知れません。何しろ右隣が銀行ですから困れば駆け込めばいいし・・・
 その後またアーネストさんの家に戻り、初めて早い時間にTAJホテルに戻ることにしました。この夜は我々3人の反省会を兼ねた夕食会になりました。さすが空腹感はあまりなく「明日からまた帰国までずっと食事が続くなあ・・」と自嘲気味にゆっくりできる中華料理に再び挑戦しました。さあ今夜中に荷物をまとめて帰国の準備です。


2月6日日曜日
 深夜の便で帰国するので2時までチェックアウト時間を延ばしてもらいましたがビクター会長から最後の日だからIOTAのペディに行こうと誘われました。まさか・・と思うとおりこれはジョークでしたがコロンボの南20キロメートルに湖があります。その真ん中に小さな島があって8室の部屋を持つプチホテルがあります。その島はスターアイランドと言ってRSSLメンバーがよく利用する所だそうです。
 対岸で待つとボートが迎えに来て早速乗り込みました。島までは5分もかからない距離ですが上陸してみると小さいながらなかなか良いところです。

 ビクターさんは160mのアンテナはここから張って・・とか21は・・などすべて過去のレシピーがありまるで自分の庭のようです。田中さんと宮川さんがアンテナ建設中に私は8室の部屋を見学しました。部屋は1室がツインルームであとはダブルです。男だけのダブルベッドはニゴンボのホテルで不評でしたたがここではエキストラベッドで対応できるという支配人の言葉でした。エアコンが3室しかないのでこれまた問題かと思いましたが、島だけに昼間は風が通り夜は小立の中でそう暑さを感じ無いようです。

 ここが無線運用に最高なことはノイズがない事です。いままで悩まされてきた都会型のノイズから解放されアンテナもホテルを挟んで張ると相互干渉からも逃れることができるという絶好の場所でした。

 早速持参した21Mhzのダイポールアンテナを木にに引っかけてCQです。誰かがクラスターに上げてくれたのかそれから驚くようなパイルアップになりました。

 このコンディションの悪い季節にこんなにJAが開けるとは想像もつかず驚くような嬉しい誤算でした。昼食は食材の魚と海老を見せられどちらにするかと聞かれましたが、田中さんがまたもや「ロブスター」と叫びました。、気がつくとRSSLメンバーは隣でカレー料理を食べていたのでこれをみて少し我が儘が過ぎたかなと反省をすることになりました。
 貧しい時代の日本でも来客に出された料理を横目で見ながら家族が梅干を食べていた時代があったことは、宮川さんならよく理解していただける光景です。おい、田中さんこれからは我がままは言うな・・!
 

 島を出て次はRSSL役員との初めての交流会です。場所はRSSL秘書の4S7KEクサルさんの自宅です。彼はRSSLきってのIT推進派のメンバーで数少ないADSLを引き込みエコーリンクやインターネット電話に果敢に取り組んでいるハムです。
 しかしアマチュア無線機はアイコムの海外仕様のもので144Mhzのトランシーバもアメリカ製で冷却用にCPUクーラーが貼り付けられているもので私たちの目からみて決して高価なものではありません。
 集まった役員は、会長4S7VK、顧問4S7EA、秘書4S7KE、役員の4S7VG、4S7KG、4S7VJ、そしていつも現れるSWLのスリさんの7名と我々の総数10人です。
 

 独身のクサルさんは38歳で、お母さんが作ったサンドイッチとお茶を囲み和やかに話が進みました。ガイドのアリさんはアマチュア無線という一つの趣味で初対面の大人がこんなに親しくなれることに驚いたようすです。興味を抱いたアリさんの教育をビクター会長にお願いしたところ快く引き受けてくれました。恐らく頭の良いアリさんのことですから、意外に早くノビス免許をクリアするのではないかと思います。

 話題は尽きませんでしたがメンバーと別れいよいよRSSLから招待を受けたシーフードレストランに向かいました。遅い昼食、会議でのサンドイッチの連続でとてもディナーという気になりません。由緒あるレストランのようですが体が受け付けないくらいです。私はスープと軽いイタリア風のスパゲティを注文しましたがアーネストさんは相変わらず天ぷら料理で、気がつくと両脇の二人のテーブルにも天ぷらが届いていました。もう堪忍して・・!田中さんはほとんど、宮川さんも残してしまいましたが、これも悪いことをしたかもしれません。


 年末にJARLに募金提案をしましたが、やらないとの連絡を受けやむなく始めた私たちの募金活動でしたが、実際に顔を見てお見舞いの意志を伝えるという目的はその思い通り100パーセント消化できたのではないかと思います。
 今回の旅では又ひと味違う経験を通し、多くの方とより親しくお付き合いすることができました。次のぺディが何時になるか判りませんが、最新の情報ではスリランカ航空は1ティケット2パーソンのキャンペーンを始めています。これは一人分のチケットで二人を運ぶという航空券でスリランカへの旅を誘う観光局がらみの企画です。
 上手くいけばこの特典に便乗し意外と早く7回目のスリランカ訪問が実現できるかもしれません。


 名残は尽きませんでしたが時はすでに2月7日月曜日深夜になりました。コロンボ空港に向かいアリさんと別れ1時35分SQ401シンガポール行きに乗り込みました。シンガポールではほとんど待つことなくSQ984便関空行きに乗り換えましたが乗客は3割にも満たない空席だらけで、田中さんは大阪まで足を伸ばしたままの飛行でした。目が覚めるとワイン、それに飽きたらジントニックのお代わりで大阪まで帰れたのですから快適な旅だったと思います。
 
 最後になりましたがRSSL役員各位やTRC−SLまた観光局の方々に心からお例を申し上げます。またアンドリュース旅行社のマヘン社長、ティラク役員そしてガイドのアリさんにもありがとう・・そして貴重な時間を頂いた宮川さん、飲み助の田中さんにも。スリランカの一日も早い復興を祈りながら・・・

〈2005.2.14〉