葛西松崎家由来記掲載にあたって 公務員生活を終えようやく自由な時間を謳歌できる環境を手にした父だったが、ある時期から急激に衰えを見せ始めたのは、まだ60代を少し過ぎた頃だった。その頃は身近で世話をやいている母の日常を垣間見る程度で、父を顧みることなどなかったような気がする。 しかしながら自分自身が既にこの年代を過ぎたことを振り返ると時間の経つのが思いのほか早かったことを実感している。しかも息子がその頃の私の年代であることを考えると、若さとは「老いる・・」と言うことなど夢にも考えない世代であることだと痛感している。 元気な頃の父の日常は、ある時期から欠かさずつけていた日記帳となって積み上げるほど残っているが、その中で特別な時間を割いた力作がこの由来記のようだ。 父は阿波徳島で生を受け、阿波藩の松崎姓から神戸に縁のある長谷川姓を名乗るようになった。多忙を極めていた父がよく言っていた言葉は「まとまった時間が取れれば先祖の歴史をたどってみたい・・」と言うものだった。 歴史が好きでその方面の学問をやりたいという願望は、幼少の頃に男親を亡くし母親とも別れる境遇から見事にこの目論見は外れたようだ。その為すぐに親戚の家に預けられ、その後書生をしながら夜学に通い苦学して公務員となった。 定年という区切りによって職務から解放され、これを機会に生地に足を運び祖先の由来について親類縁者や関係者から聞き取った内容をまとめて小さな冊子にしたのがこの由来記である。 「時間があったら読んで見ろ・・」と遠慮がちに手渡された刷り上がったばかりの冊子は、タイプ印刷のインクの臭いがしていた記憶がある。当事は今ほどの思いがなかったのだろう、ぱらぱらと走り読みをした程度でしまい込んだままいつしかこの冊子の存在さえ忘れてしまっていた。 ある日増え続けた書籍やがらくたの整理をした際に、埋もれた書類の中から見つけた懐かしい冊子を手にし精読したのは父が亡くなってからずいぶん後のことであった。 プライバシーや個人情報の取り扱いにことさら配慮を求められる時代だが、何もしてやることができなかった父への思いをなにがしかの方法で記憶に留めておこうと思い私のWEBに載せることにした。これはある意味父への供養でもあり祖先に思いを馳せる心の余裕を持て・・という教えではないかと思い直している。 時とともに親戚つきあいも疎遠になり、三代もさかのぼれば他人同然となることは当然の成り行きだが、両親から始まる近い祖先を知ろうとすることは今の自分を振り返る機会でもあると思う。 他人にとっては何の価値もない個人の由来記に違いないが、ここを原点とする血縁者だけでも全国に相当数いるのは確かだ。この情報が血縁を同じくする者の目に触れまた新鮮な感動となるのであれば嬉しいことだ。 父が亡くなってからすでに1/4世紀を越え(S53没)、親不孝という言葉が死語になりつつある今、正にこの言葉を実践した感のある自分自身を反省しながら、この由来記を通じて父が大切にした時間を遅まきながら振り返ってみたいと思っている。 これが何人の目に触れるか判らないが、30年以上前に紙に残した数百部の冊子が親類縁者の中でどの位残っているか知るよしもないが、朽ち果てていつしか消える宿命にある紙をインターネットという新しい縁に置き換えることによって時の風化に少しばかりのブレーキとなることを密かに願っている。 管理者、長谷川 了 |
|
追記 思い切って公開したこの由来記がどんな結果をもたらしているかは興味深いところだが、公開から数年これまた数回お便りを頂いたことがある。 同じ松崎姓ながら全く姻戚関係にないと思われる方からも、貴重な家族の歴史を調べたこの記述をうらやましく思う・・・や、ここに登場する人物の消息を尋ねるものなど、が主なものだった。 その中で2009年の秋、一通のメールを受け取った。それによるとここに紹介した七代・松崎団平氏のお孫さんからのもので大変驚いた。 何度かのメールのやり取りの後、厚かましくも千葉県のご自宅を訪問し歴史的な出会いを果たすことができた。昼食をご馳走になりながらアルバムを開き、話を進めるうちに新たな事実にめぐりあい、少しばかり歴史の空白を埋めることができた。 年ごとに疎遠になっていく姻戚関係は仕方がないにしても、このページが縁で再び結びつが始まるきっかけがインターネットということに隔世のかんがある。インターネットがこの絆の手助けとなることは何よりも嬉しいことである。 聞くところによると、これがきっかけとなって翌年春に親類縁者が久々の集まりをもつことになったようで、少しばかりお役に立てたことが嬉しい。父の松崎性は言わば私自身も直系でありこの輪がさらに広がり永く結びつきが続くよう密かに期待している。 2009.12 管理者 |
TOPへ戻る | 本文に進む |